2017/08/01 21:42
これは県外の人間はまず気がつかない事実だろう。私も40歳を越えて初めて、佐賀県と長崎県の県境にあるサービスエリアでなんとなく目に入った地図で気がついた。長崎県だけが単独で切り取られている地図である。五島列島に壱岐、対馬に平戸、それに本土が等配分的に視覚に入るので、まるで日本の地図に見えない。例えばポリネシアの群島のようにも見えるし、セイシェルにも見えなくもない。
そしていま波佐見焼きが旬である。
中国から伝来した白磁の技術が日本に根付いたのが佐世保や伊万里。やがて古伊万里は芸術としても価値の高い日本を代表する輸出品として西洋でもてはやされ、「イマリ」は世界に名を轟かせた。しかし「イマリ」は輸出港だったために名を馳せただけで、実質の生産地はその内陸の有田地域。となると次に有田焼の名が冠されるのだが、ホントのホントの生産地はさらに佐賀県境の向こう側、長崎県の波佐見町だった...。食品の産地偽装が問題になった現代、原産地の詳細表示が義務化され、有田焼の約半分は波佐見焼きに名乗りを変えた。産地は「そのあたり」でも、所在する県が跨がれば正確な出身地を名乗らなければならないからだ。しかしその事が今まで日陰で頑張ってきた波佐見の優秀な職人たちに光を向けたのだ。
そんな波佐見町が1年のうち春と秋、窯元総出で盛り上がるイベントがあるという。4月は桜の開花時期に合わせて開催される「桜陶祭」、秋は実りの時期に合わせて開催の「秋陶祭」である。ゴールデンウィークの陶器市よりも中尾山含めた広いエリアで楽しめる一大イベントということで、4月最初の土日を絡めて、今回の長崎県上陸となった。
私たちがまず目指したのは成田空港。千葉で開催されていた全国陶器市で偶然お話しした、地元波佐見の方に事前に聞いていた最良かつ最安のアプローチ方法。それは成田発LCCを使った佐賀空港へのダイレクトイン、そして千円レンタカーの二段活用である。春秋航空の日本法人であるスプリングジャパンが、ボーイング737で成田と佐賀の間を毎日2往復しており、平均でも片道約7,500円くらいで九州に到達できる。佐賀は何も無い事が全国的にも有名な平野だが、考えようによっては福岡にも熊本にも長崎にも等間隔に近い。さらに、佐賀県は佐賀空港への観光客誘致のために一日千円でレンタカーを借りる事が出来る助成金制度を運用しており、1泊24時間の範囲であれば本当に千円ポッキリでクルマを手配出来る。波佐見は長崎県とはいえ山間の佐賀県に隣接したエリアなので、長崎空港からアプローチするのとそう変わらない距離感なのだ。
昼前の成田LCCターミナルから予定の1時間遅れで飛び立った飛行機は、遅れを解消出来ないまま1時間遅れて平らな佐賀空港に着陸。バジェットレンタカーのカウンターに立ち寄り、これから4日間の相棒になる長崎ナンバーのダイハツ・タントとご対面。踏めども踏めどもスピードが上がらない純白の軽自動車は、佐賀ののどかな湿地帯を一路長崎を目指して走り始めた。
嬉野から山がちな地形となり、県境を越えると日差しも穏やかな大村湾が目の前に広がる。さらに進むとまたもや山と谷の繰り返しとなり、大小さまざまなトンネルを抜けるといきなり道が終端になり路面電車が目の前を横切った。ここが長崎、古くからの国際都市。街自体は山と海に挟まれ平地は極端に少なく、傾斜地に立ち並ぶ住宅が印象的。大浦海岸に建つ瀟洒な洋館風ホテルにレンタカーとともにチェックインし、港を横目にまずは長崎新地中華街を目指す。日本の中華街の中でも随一の歴史を持ち、主に福建省出身の華僑をルーツにもつこの街は、鎖国当時の江戸時代に発生。貿易港として古くから名を馳せた長崎とともに発展した。横浜中華街・神戸南京町とともに日本三大中華街と言われる。実際は非常にコンパクトながら、老華僑が大切に齢を重ねた感のある重厚感溢れるチャイナタウンである。この街が誇る伝統の味が「長崎ちゃんぽん」と「皿うどん」であるが、閉店間際の夕刻の訪問となったため明日へ順延。新名物の「角煮バーガー」で小腹を満たしながら中国雑貨店を見て回る。
「中華街」と一言に言ってもここ10年で人も雰囲気もガラリと変化した印象がある。特に日本で最大のチャイナタウンである横浜中華街は変わってしまった。その一つが食べ放題店と開運易者、甘栗売りの増加だ。そして提供される料理の味も変化した。
日本人の連想する古典的な中華料理は広東料理だ。乾物を戻した海鮮の出汁が奏でる繊細な風味が特長で、日本に最初に伝播した中華料理の基礎になったため、日本全国で味わえるいわゆる「町中華」の味はすべて広東料理である。この味を広めた世代から連綿と続く華僑は一般に「老華僑」と呼ばれる。一本の包丁と広東料理から始まった彼らは何世代にも渡り日本に同化したことで、自身のアイデンティティーを保ちながらもこの地に馴染み、共生していった。老華僑は会食の場としての老舗高級店を営むことで中華街のステータスを徐々に上げていった。自前で互助組合を設け、後世への伝統文化の継承のために中華学校を設立し、街の景観のために電柱を地中化したり、周辺の道路環境を整えるために立体駐車場を建造した。そうして観光地としての評価や価値を高めた結果、今のブランドを確率することになる。
そんな中華街にも突然の転機が訪れる。2011年3月の東日本大震災である。老華僑経営の老舗飯店に長期滞在しながら働く中国人調理師たちが恐れた事、それは先の巨大地震やその後も続く余震活動よりも後の福島原発事故による放射能汚染の恐れだった。彼らは我先にと一斉に帰国を始めたのである。調理師不在では店の運営も侭ならず、この年だけで実に60軒もの老舗飯店が姿を消す事になる。その後も影響は尾を引き、跡継ぎのない老華僑世代も次第に店を閉じ始める。一方、空き店舗となった老舗飯店に居抜きで入り始めた世代が「新華僑」である。
新華僑とは改革・開放路線が鮮明となった1978年以降に中国から日本へやってきた新世代の華僑のこと。初期の世代ではピリ辛中華の四川料理に代表される陳健民氏などが有名だ。しかし移民の増加が一気に加速したのは2000年以降。華南や東北の出身者が多く、かの地でいかに儲けるかが最大の関心ごとである彼らは老華僑とちがい一本の包丁にはこだわらなかった。空き店舗を居抜きで借り上げ、店舗名はそのまま継承。材料費をとことんまで引き絞った量産型中華料理を食べ放題形式で提供し、高回転させる事で利益を出す営業スタイルを確立する。さらにテイクアウト形式の肉まんや焼き小籠包を店頭販売し路上で食べ歩くという、従来に無かった客層も増えていった。これらテイクアウト店や食べ放題店は日本の長引く不況とも相まって増加の一途。客単価を極端に落とす要因となり高級中華店の存在を足下から脅かした。開運易者や栗売り、最近では花文字なども増えているが、中華街は食べる場所からそぞろ歩きする場所へ変化していった。今では横浜でも伝統的な広東料理を味わえる老舗は片手で数える程度にまで減少してしまった。
これも時代の流れであり受け入れるべき事実。しかし古き良き老華僑の中華街の残像を求めていた矢先、新地中華街に出会うと懐かしさと同時に新鮮な驚きを覚えた。小さくともしっかりと凝縮した魅力がある中華街である。