2017/08/05 07:00



夕日が沈む長崎湾の風景。長崎出島ワーフのデッキテラス席に座り
ながらのビール、そして対岸の稲佐山。この時間になるとひっきりなしに旅客船が接岸してくる。遠く五島列島からの便なのか、帰宅の足になっている様子にも見えるが、よく見ると降り立つ通勤者が日本人ではないことに気づく。背の高い北欧系、ドイツ・イタリア系、フィリピンやベトナムの若者など、全員が男性で作業着風の佇まいという共通点がある。彼らは下船すると二手に分かれて行進している。片方は帰宅を急ぎ市電乗り場へ、そしてもう片方は出島ワーフのビアガーデンへと繋がっている。欧米人がジョッキのビールを呷る光景。まるでドイツ北部の港町と見まごうばかりの風景だ。現地の方に後で聞いた話では、彼らは対岸の三菱重工造船所から帰宅する技術者か作業者のどちらかなのだという。ご多分に漏れず、近代日本の礎となった造船の現場でも技術者不足は深刻で、特に近年の造船業界は発注元や設備規格の欧米化もあり、短期滞在の外国人技術者を期間工として大量に採用した経緯があるそうだ。さらに現場の作業者も事業を維持するだけの要員を確保出来ず、主に東南アジアからの出稼ぎ労働者に頼った。造船所の労働者のうち7〜8割は県外・海外からの働き手とも言われ、人材派遣会社が長崎市内の空きビルを丸ごと借り切り、そこに短期居住を繰り返している。夜の長崎の繁華街にはこれら期間工をターゲットとした比較的新しめのショットバーなども多く、一見すると賑わっているようにも見える。熟練の技術を要するはずの造船も、日本人だけでは到底成り立たない現状...。そしてこの一ヶ月後、2017年5月3日に三菱重工は最後の大型客船「アイーダ・ペルラ」を竣工、欧州の発注元へ出航したのを最後に不採算の造船事業からの撤退を発表した

思案橋は長崎の誇る繁華街。昔の花街跡で「行こか戻ろか思案する」ことからこの名がついたと言われている。友人から前評判を聞いていた裏路地の寿司割烹を探し出し引き戸を開けると、そこは地元長崎人が集う憩いの酒場。周囲が海の長崎は当然ながら魚が旨い。地魚盛り、甘鯛フライ、ぶり真子、すり身の煮付け、ばってら、茶碗蒸しなどをいただく。長崎の味に共通点があるとしたら、それは「甘味」である。まず刺身に垂らす醤油が甘い。割烹のご主人曰く、開国が早かった長崎では他地域では入手が困難だった砂糖が入手し易く、それを誇るために料理が甘くなったそうだ。さらに長崎が甘党の街であることを実感するもう一つの事実、それは菓子店の多さと営業時間の長さである。夕食を終えてふらついていた夜10時の街角でも菓子店は煌煌と明かりをつけて営業中、それを買い求める長崎人の多さも注目すべき点だ。

二日目、朝から雨模様の長崎港に大型客船が現れた。船尾にはメキシコの旗が翻っており、着岸後大勢の外国人が降りてきたようである。長崎には古くからの開国の歴史があるが、中でも対中貿易の中継地としての重要性を分かり易く公開しているのが「旧香港上海銀行長崎支店記念館」である。
上海に最も隣接した日本の西端は長崎になる。その距離は直線で810km。長崎/東京間964kmよりも近い。対中貿易の上で東京と上海の中間地点であった長崎港は、古くは1867年開設の太平洋郵船の横浜〜上海航路の寄港地としてスタートし、その後の1923年から戦前の1943年までの間、日本郵船の長崎〜上海航路「日華連絡船」の出港地として非常に重要な地位にあった。長崎〜上海間は26時間、4日に1回の運航で、20年間の歴史の中で3隻の専用船(長崎丸・上海丸・神戸丸)が就航している。当時の長崎市民にとって旅券が不要だった上海は、「長崎県上海市」や「下駄履きで行ける外国」などと言われていたそうだ。1937年に日中戦争が始まり日本と上海を往来する避難民が増加、一時は輸送量も逼迫したものの戦争激化とともに乗客への目も厳しくなり、気軽に行ける上海の空気感は次第に無くなっていく。ついに戦時下の1943年、3隻の専用船は次々に戦火で失われた。「旧香港上海銀行長崎支店記念館」は日華連絡船の歴史について豊富な資料を展示しており、他にも孫文と梅屋庄吉の友好関係、長崎市の歴史的建造物や長崎港の解説など、魅力のある展示がなされている。1989年に国の重要文化財に指定された石造りの洋館で、一階の銀行カウンター跡は当時のままの姿で残されている。

さて、肝心の長崎ちゃんぽんである。再び昼前の長崎新地中華街を目指すと、昨日と違い大勢の観光客で賑わっていた。我々は当然のごとく「ちゃんぽん」と「皿うどん」を注文したが、気になる「ハトシ」という謎の一皿も追加発注。このハトシ、中国や東南アジアから伝来した「卓袱料理」の一つで、広東料理の「蝦多士」を起源とするエビのすり身入り揚げトーストのことを指す。同様の料理は長崎以外の各国にも伝播しており、台湾では「蝦土司」、ベトナムでは「バインミーチントム」、タイでは「カノムパンナークン」、遠くアメリカのチャイナタウンでは「炸蝦多士」として、どれも同じ料理であるが世界中で活躍中というハリウッドスターのような料理だ。
肝心の長崎ちゃんぽんは見た目を裏切るあっさり風味で極めて美味。新地中華街でも店によって風味付けは多岐にわたるようだ。

濃厚だった長崎を後にして、我々は長崎自動車道を北上し一路有田窯を目指す。嬉野から波佐見の集落を通り過ぎ、目的地の有田焼卸売団地へ到達。卸売団地とはいえ、一般客も利用可能な「有田陶磁の里プラザ」は、有田に窯を持つ企業が共同出資して設立した巨大な有田焼ショッピングモール。23の店舗を効率的に見て回る事が出来るので急ぎの旅行者には最適な施設だ。
1616/arita japan」は有田の窯元であり商社として有名な百田陶園がチャレンジした、従来の有田焼のスタイルにとらわれない新カテゴリー。クリエイティブディレクターとして日本人、オランダ人の二組のデザイナーを招き、未来を見据えた新しい器。柳原照弘氏ディレクションのスタンダードシリーズは華麗な絵付けはなく、白磁の持つ本来の白さにこだわった透明感のある白が特長。一方のショルテン&バーイングス両氏ディレクションのカラーポーセリンシリーズは、日本の伝統色を意識し洗練の中にも日本人に響く懐かしい淡い色調が特長。和食にも洋食にもマッチするモダンテイストが比較的安価な価格で手に入れる事が出来る。有田焼=伝統工芸品=高価というイメージを切り崩すことにも挑戦している。とても繊細で薄く、軽い。とくにTYスクエアシリーズのライトグレーカラーは釉薬を使わずに焼き締め、研磨して仕上げる事で繊細な美しさが際立った逸品。まるで工芸品のような風格があるのにオーブンや電子レンジ・食洗機にも対応している。日常使いのための器として使いたい名品だ。

日も暮れて明日からの波佐見通いのベースキャンプとなる佐世保へ移動。佐世保は米海軍と海上自衛隊が管理する軍港。長崎同様山がちな地形だが、さらに山が迫り来る印象があり、やはり佐世保の方がコンパクトな街のようだ。佐世保駅前の東横インに宿を取り、駅の向こう側、日が沈む軍港を臨む。再開発でかなり近代的に変わったのであろう佐世保駅前と周辺は、小奇麗だがなんとも味が無い。旅情という面から言えば残念、例えて言えばつくばエクスプレスの駅前に似ている。TSUTAYAとスシローに東横イン、それに芝のきれいな公園というフラットな景観。

三日目、穏やかな晴れ間の中、いよいよ本来の目的地である「桜陶祭」へ向かう。西九州自動車道を南下、三川内焼で有名な佐世保三川内をスルーし、波佐見有田ICで降りる。長崎県でも山中の地域であり風景的には笠間・益子によくに似ている。車両の立ち入りが規制される中尾山エリアへは組合が用意した専用バスで向かうのだが、乗車口の波佐見陶磁器組合前には朝10時時点ですでに行列が出来ていた。
波佐見町は県道1号線の周囲にやきもの公園や西海陶器などの商社、モンネ・ルギ・ムックや南倉庫がある西の原が点在しているのだが、窯元は別のエリアである中尾山に集中しており普段は開放されていない。陶器市も麓のやきもの公園一帯で開催されるだけでやはり中尾山は開放されない。神聖な仕事場が開放され、普段出会えない職人さんとの交流が図れる貴重な機会という事で、桜陶祭は多くのファンで賑わうようである。