2017/09/06 23:21
1997年の春、まだ学生だった私はユナイテッド航空バンコク行きの機内に居た。この旅は行きの機内から様子がおかしかった。ジャンボ機の3人掛け窓際に席を取った私の横に並ぶ2人の欧米人女性は、離陸前にも関わらず泥酔しておりその後もドンチャン騒ぎ、さらに向精神薬と思しき錠剤を日本酒で飲み干し、おとなしくなったかと思えば着席中の座席で嘔吐する騒ぎ。ついにはキャビンアテンダントも怒り出す始末。さすがにこのまま同席するのが限界と思い席を立った私。そこに4-5列後ろのシートから手招きしてくれた日本人の初老の男性、さらに背後から様子を見ていた3人組の男性グループが、後列の空席に私を匿ってくれた。「タイに男を買いにいくとんでもないアバズレ、ファラン(タイ語で白人のこと)はアジア人を舐め腐っているどうしようもない連中」。初老の男性がそう教えてくれた。彼はバンコクで単身で商売をしているらしく、タイ初心者の私に旅の道中気をつけるべき様々な事をレクチャーしてくれた。3人組はバンコクへ雑貨の買付けに来たらしく、下北沢で衣料品店を経営しているとのこと。降機の後も話が弾み、まだ当日泊まる宿も決めていなかった私を相乗りに誘い出してくれた。蒸し暑い夜のドンムアン空港から、男4人をギュウギュウに詰め込んだカローラのタクシーは一路、カオサン通りを目指して走り出した。
当時のカオサン通りはバックパッカーブームの真っただ中にあった。タイを題材にしたディカプリオ主演の有名な映画「ザ・ビーチ」の世界観そのままである。東南アジア旅行の起点都市としても有用なバンコクは、旅に同化し沈没していく若者の受け皿にもなっていて、中でもカオサンは掃き溜めのような状態になっていた。タイ人店主の飲食店で食事をしていると、そこには明らかに欧米人のやや発育不良の赤ん坊が預けられていた。店主に事情を聞けばドイツ人のカップルが勝手に産み落としたまま帰国してしまった、やむを得ず店で引き取り何人かで育てている、といった悲壮感漂う話がそこここに広がる街だった。そんな私もまんまと貸し切りボート詐欺にあったり、本気のオカマ数人に追いかけられたり、散々な目にあった。その度にもう耐えられないとカオサンからチャイナタウン、さらにスクンビットとホテルを渡り歩いたが、どうも街の空気があわない。連日の渋滞、猛暑、どぎつい食べ物。
特に当時のバンコクは交通網の供給が軟弱だった。スカイトレインは目下建設中だったがまだ支柱を立てている程度。頼りの足は路線バスのみで、エアコン付きと無しが半々。しかも極度の大渋滞に嵌ると、笑えないくらいにまったく動かなくなる。スクンビットの入り口から王宮まで片道5-6キロで2時間近く掛かることがあった。例えて言うなら新宿から日本橋までが所要2時間...というレベル。排ガスで街が包まれ息苦しい。唯一空が抜けるのはチャオプラヤー川のリバーエクスプレス。気持ちのよい風に吹かれながら、走り去る街の風景を川面からぼんやり眺める時しか、気が休まる瞬間が無かった。そして最終的に原因不明の発熱と下痢に冒され、一週間くらいホテルの自室で格闘したあげくに旅の中断を決意。青白い顔で日本航空バンコク支店に白旗を上げて駆け込み、バンコク→成田→バンコクの1年間オープンチケットをタイバーツで購入した。この先サムイ島やペナン・KLを経てマレー半島をシンガポールまで南下する予定を立てていたが、賞味20日程度でスタート地点から撤退したという苦い記憶がある。(結果、半年後に成田→バンコク/シンガポール→成田を消化する旅に出る羽目になるのだが...)
あれから避け続けていたバンコクに、20年後の2017年に再上陸することになった。私にとっては失われた20年を取り戻すべく、当時はまだ存在すらしていなかったスワンナプーム国際空港に降り立ったのだが、まずその巨大空港ぶりに驚いた。ゲートから入国エリアまで徒歩だけでゆうに1キロ以上はありそうだ。地理的にも東京よりハブ空港として有利なバンコクには、欧州や北米とオセアニアを結ぶ大切な機能があるのだが、他にもアジア諸都市、インド、インド洋の島々、アフリカの東海岸からのフライトが集中する。このため入国審査場が嫌な予感で一杯になるのだ。様々な民族と様々な人種の見本市、It's a small world。一向に進まぬ行列を前にして、ここで1時間程度のタイムロスが出た。空港から街の中心を少し越えたBang Rak、バーンラック地区まではタクシーを使い1時間。途中土砂降りの雨と高速出口の渋滞に遭遇したものの、チャオプラヤー川のほとりのサービスアパートメントにストレスなく到着した。
バンコクにおいて滞在場所の選択は非常に重要だ。この都市は移動に時間がかかる。所用があるポイント、食事、アクティビティー、すべてが至近にあることが大切だ。私たちの中で重要な点は3つだ。ひとつ、チャオプラヤー川に近いこと。ひとつ、BTS(スカイトレイン)が手軽に利用出来ること。ひとつ、下町であること。
まず川が至近にあるということは、渋滞知らずのチャオプラヤーリバーエクスプレスが利用出来るということ。空がひらけていることで落ち着いた町並みが期待出来るから。この条件を最優先とするとバンコクの「現在の」中心部よりも西側の市街地、BTSなどの交通網が未発達の下町を自動的にチョイスする事になる。しかしながら王宮やカオサンのある旧市街地(ラタナコーシン)は都市交通網が皆無、チャイナタウン周辺などは一日中渋滞があり、どこに出るにもストレスを抱える事になる。いわゆるリバーサイドは一般的に五つ星の高級ホテルが多く所在し、滞在費に余裕のある人向けなので我々には厳しい。そしてさらに南、バーンラック地区はビジネス街シーロムエリアの外れではあるが、BTSサバーンタークシン駅の直下。サトーンの船着場もあり、我々の要求にバランスよく応えてくれる期待の持てる場所だった。
タイ華人の歴史は古いのだそうだ。なぜバンコクに来て早々、華人の話が始まったかというと、このバーンラック地区にはなぜか美味しい叉焼の店が集まっているからだ。バンコクには非常に大きなチャイナタウンであるヤワラーが存在するが、バーンラックはヤワラーエリアからは2km程度は外れており、その関連性は薄いはず。ほかにも「涼茶」や「 燕窝」「魚翅」「猪肉粥」の漢字表記とタイ語表記が並列された看板と中華系の門構えの店も多い。店先には飴色に輝くローストダックが吊るされていて、その様は香港や広州で見る光景そのもの。このエリアにはバンコクの中でも特筆して新鮮な食材が集まるバーンラック市場が所在しており、それが理由で鮮度を求める広東料理をルーツに持つタイシノワの老舗が集まったのではないかと言われている。
タイの華人の56%は潮州人といわれ、次いで客家人の16%、海南人の11%。他のアジア諸国の華僑に多い福建人や広東人は7%ずつと少数派である。この割合からすると、広東系が多数派のバーンラック地区の特殊性がご理解いただけると思う。
ではなぜタイ華人には潮州系が多いのか。古くは明の時代、アユタヤ朝との交流が深まったころから中国人のタイ移住は始まったとされ、トンブリー朝時代にタークシン(中国名は鄭信)が華人初の王朝をたてた。そのタークシン自身が潮州人だった事が要因のひとつとされている。
1700年代から始まった移民開始当初、彼らは港湾や建設現場などの単純な肉体労働に従事していた。今の裕福な暮らしはご先祖様があってこそ。現代ではタイの財閥系企業のほとんどがタイ華人の経営であり、タイの経済を動かしている実質は華人である。
移民だった彼らも第二次大戦やタイ政府の政策もあって帰化が進み「華僑」から「華人」になった。タイ式の名前を名乗らせる事を制度化したり、中国語教育が制限されているなど、帰化から3-4世代目となった現代華人はもはや日常会話はすべてタイ語。ルーツの中国語は内輪や家族間でも話す事が出来ない。この点は東南アジアに見る他国の華僑とは大変大きな違いがある。また、富裕層を牛耳る華僑と現地人との衝突といった格差問題も見られない。 今やタイ人の8割は華人との混血と言われているくらいに見事に同化が進み、タイの日常光景の一部に馴染んでいった。
そんなタイ華人の飾らない暮らしが垣間見える街、それがバーンラック地区だ。この街に来ると彼らの存在を無視することは出来ない。