2018/01/20 08:00
ペナン島と香港島は成り立ちがよく似ている。スタンレーに対するバトゥー・フェリンギ、スターフェリーとペナンフェリー。ヴィクトリア・ピークとペナンヒルなどなど。1930年代まではジョージタウンにも路面電車が走っていた。繁華な ジャラン・ペナンには舗装路の一部には、今でもアスファルトの下から顔を覗かせた線路跡が残っている。
香港仔や大澳のような水上集落も存在する。福建省出身の華人の集落であるクラン・ジェッティー、桟橋集落のことだ。クランは姓を、ジェッティーは桟橋を意味する。バタワース行きのフェリーが発着するウェルド埠頭の南の海上に7つの桟橋集落があり、 姓林橋(リム姓)、姓王橋(ウォン姓)、姓周橋(チュー姓)、姓陳橋(タン姓)、姓李橋(リー姓)、姓 楊橋(ヤオ姓)のそれぞれ同姓氏族だけが住む集落と、いくつかの家系が同居する混姓集落「新桟橋」がある。元は港湾労働に従事する移民たちが仕事で使う船の上で生活を始めたのがきっかけで、そのまま桟橋に生活環境を築いていった。そのため、桟橋上には商店や道教の廟、集会所、宿泊所などがあり縦横無尽の迷路のような街としての様相を備えている。 狭い桟橋は板張りで、隙間からは下の海面を覗く事ができるのだが、その上をバイクがそのまま往来する様はここでしか見られない。実は現代のクラン・ジェッティーの住人たちは陸上に勤めに出る人がほとんどのようだが、生活の場を陸上へ移す事はないようで、集落は今も現役で使用されている。同郷の仲間や同じ氏族、家族同士で移住の足がかりを助け合う精神は現代の華僑たちにも受け継がれている。ジェッティーの他にも「福建会館」「潮州会館」などの同郷出身者が設立した協会兼集会所である「公司」や廟が存在し、それはペナンに限らず、クアラルンプールやマラッカ、他にも周辺のアジア各国でも目にする事が出来る。
ちなみに現存する桟橋は7つだが、以前はこの他に郭(コエイ)、平安(ペイアン)の2つの桟橋があったそうだ。福建省出身の泉州人(唐代から外国貿易で発展したイスラム系中国人)の集落だったが、港湾エリアの再開発の話があり2006年に撤去された。しかしその後2008年にユネスコの世界遺産認定があったことで再開発事業が中止となり、残る桟橋7本が保存されたことで今日に至っている。
チョウラスタ市場近くのジャラン・ペナンには古びた老舗の土産物店が点在する。
そのうちの一軒の店主と話をする機会があった。その昔、1980年代にリゾートとしてハネムーン客が大挙して押し寄せていたころ、日本人観光客はペナンの土産物店にとっては大口の顧客だったそうだ。彼らは独学で学んだ日本語(かなり流暢だ)を巧みに操り、マレーシアの特産品である高級なピューター(錫製品)やプラナカン雑貨のレプリカ、バティック布などを、爆買いする日本人ツアー客に売ることで生計を立てていた。日本人向けの店に仕様を特化することで爆買いバブルを享受していた時期があったようだ。(まるで数年前の中国人爆買いツアー客ブームのように)しかしその後のバブル崩壊でめっきり来訪者が減少、上顧客であるはずの日本人も個人旅行が主体になったことで、団体客が見込めなくなってしまった。以降は細々と、欧米人や駐在の日本人に向けて商売を続けているそうだ。
まるでブームが去って廃れてしまったリゾート地、清里のような風情といえばご理解いただけるだろうか。煤けた日本語看板「いらっしゃいませ」が郷愁を誘う独特な門構えの店に一歩入ると、しかしそこには宝物が眠っている。
70-80年代の景徳鎮白磁は、主に中国の外貨獲得の手段として製造・販売されていた 。国共内戦の後に中国共産党主導となった中国では、文化大革命のもと装飾的な伝統工芸は退廃的なものとされ排除された。文革による長期的混乱のなか1970年代に入ると経済活動の停滞が本格化。さらに行き詰まることで次第に後の改革開放路線へと舵を切り返す事になるのだが、この頃から一度は封印された伝統工芸を再び復活させ輸出する動きが強まった。しかしこれらは疲弊した内需向けではなく対外輸出向けの動きであり、主に中国国外の華僑商人を通じて貿易された景徳鎮白磁は、香港、台湾、マレーシア、シンガポールなど華僑優勢の諸外国に流通。工芸価値がありながら非常に安価だったため、日常の食器類に多用された。中国的なエキゾチズムのある景徳鎮白磁は土産物としても喜ばれ、先ほど登場した80年代バブル期の土産物店にも大量に入荷、後にバブルが崩壊。それらは20年もの間滞留在庫としてストックされたまま、煤けた店頭やバックヤードについ最近まで 眠っていたのである。
デッドストックは当然価格も昔の値札のまま、時だけが確実に流れたものだ。そもそも工芸的な価値がありながらも安い。 現代中国は高度に機械化が進み、手工芸品は高級化が進んでしまった。このことから、今後の価値の高騰を見越した「 豊かになった」本土の中国人による買い占め合戦がもうすでに始まっているという内容の話だった。
そういう意味では、ペナン旧市街はデッドストックされていた景徳鎮白磁と同じ状態にある。80年代終わりの日本のバブル崩壊から島のリゾート開発が止まり、2000年までの行政による家賃統制、さらに2008年にユネスコの世界遺産認定を受けたことで以降実質的に スクラップ&ビルドが不可能になった。古いショップハウスはその建築様式を残したままリノベーションをしなければならない=費用負担が大きい。建物の適切な維持にはお金がかかるため、手入れがされずに劣化が進んだ建物も相当数存在する。公的な資金補助が無ければ、従来の住人だけでの維持は困難だろう。
ここ数年で目につくようになったのは、本来は別々の区画のショップハウスをヨコ一列ごと一斉に買い上げ、内部に横軸の通路を設けて長屋ひと続きごとをホテルや商業空間などにリニューアルした物件だ。ひと続きで装飾を統一しながら、しかも同時期に更新・再開発されるので、街として見るときれいにリノベーションされる一方、こういった手法は巨額の費用が掛かるため外資の流入が無ければ困難だ。そしていま、ここには巨額なチャイナマネーが流入し始めたそうだ。 手工芸品と同じく、「豊かになった」本土の中国人による買い占め合戦は不動産の世界でも始まっているという。シンガポールや香港 、上海、北京から投資目的の資金が流入し、この街は古き良き時代の姿をそのまま残す。ただし資産価値が増せば、従来から住んでいた古くからのペナンの人々は、もうそこには住めなくなるかもしれない。世界遺産登録が引き起こした、なんだか皮肉な現実。事実、ジョージタウン中心部の住宅価格は首都クアラルンプール中心部並みにまで引き上げられてしまっているという。
中国系マレー人には大きく分けて2タイプ存在する。華僑系学校で学んだ中国系マレー人と、マレー系学校で学んだ中国系マレー人だ。一見すると同じ中華系だが、後者は漢字の読み書きが一切できない。 これも土産物屋の店主の四方山話だ。
齢50代後半くらいの中華系の店主は、最初からマレー人として一般的な小学校に入学しマレーシアの義務教育を受けた。マレーシアの第一言語はマレー語だ。基本的な読み書きはすべてマレー語で習得。続いて第二言語として旧宗主国由来の英語を学び、これも難なく習得し自由に操る事ができるようになった。ただしこの二つの言語は読み書きにアルファベットを使用するため、この時点でまだ漢字の習得には至らない。彼は学校教育を受ける前から、同居の家族とは蛮南語(中国語の方言で福建語の亜種)で会話をしていた。ただしコミニュケーション上の話し言葉としてだけで、実際に漢字を習得する機会には恵まれなかった(逆に言えば、漢字が必ずしも必要でない社会であるとも言える)。その後、生業として土産品の販売の仕事をする上で必要に駆られて、マンダリン(中国普通話)、広東語、日本語、フランス語、スペイン語を「外国語」として 独学で習得。そのレベルは驚きを通り越すほどに大し たものだが、すべてアルファベットでの読み書きのみで習得を したようである。
日本人が中華圏に行った場合、話し言葉は通じないが漢字の読み書きがわかるので「筆談」が意外なほどに有効だったりする。しかしこの国では例外も存在するのだということを、驚きを持って知った。 マレーシアが多民族国家であることは最初に触れた通り。国民全員 が持つIDカードには自分のルーツである民族を示す表記欄があるほど。しかし多民族国家ゆえにエスニシティが細分化し、お互いが交わる事なく平行線のまま共存しているように感じる場面も多いようにも見える 。その一つがブミプトラ政策に代表されるマレー人への優遇による民族格差だ。
この格差については、数日間街の様子を見ているだけでも何となく理解できると思う 。政府系の職員である入国審査官や警察官、公務員であるペナン市のバス運転手など、優遇策が取られている職業に就いている人間は、歪なほどにマレー人が優先的に 採用されている。 居住地域もなんとなく民族ごとに分かれているようで、日常出入りする食堂や商店などのコミュニティーもなんとなく別々。朝のシントラ通りの 茶樓にマレー系やインド系は居らず、昼のナシカンダール屋台に中華系は居ない。 ジョージタウン郊外のTESCOの大型モールにはなぜかマレー系の姿ばかりで 、ペナンでは多数派のはずの中華系は皆無だった。
大英帝国の統治時代に多くの開拓移民を受け入れたマレー半島。南国の未開のジャングルはこの時代の人為的な移民流入によって開拓され今に至る。かたや豊かさを求めて新天地へやってきた海千山千の華僑や印僑、かたや元来が商売下手な陽気な南の人間だ。放っておけば格差は自ずと出てきてしまう。そこへ政府が政策で平均化しようとしたところで別の歪みが発生してしまう。 実際に大学入試などの場面では、国の人種構成比率が合格者の比率とリンクする仕組みだ。10人の合格者がいれば、マレー系は7人、中華系は2人、インド系は1人前後。優先されるべきはこの比率であり、そこに試験成績はリンクしない。成績ではたとえ上位10位すべてを中華系が独占したとしても、3位から下の人間は枠外となり自動的に不合格となる。このため特に中華系子弟 の周辺国への海外留学、優秀な人材の流出が深刻とも言われている。中華系は学業ごとにも熱心なので、自国にチャンスが無いと踏めばすぐさま海外へ目を向けて しまい (シンガポール等海外大学からの奨学金提供などもある)、結果的にマレーシアの国力が落ちていく懸念もあるという。
マレーシアは調和のとれたモザイク国家、多民族国家の優等生などと評価される場面もあるが、理想論では語り尽くせない、実際の融和への壁は厚いのかもしれない。
日に5回、モスクから大音量でアザーンが流れる。昼下がりの気怠い熱気と 灼熱の太陽から逃れるように、ショップハウスの階下の暗がりで静かに休息する華僑の老人。険しい目で通りを行き交う人々を見つめるインド系洋品店店主。ルーツが異なる人々が、同じ街に暮らし時を共にする事で、今日も歴史を紡いでいく。
それが檳榔樹の島の一日。ペナンを中国語で表記すると「檳城」となる。