2018/04/17 08:00
「回転板付きの円卓」は実は日本発祥の発明品なのだそうだ。中華の大皿料理をセルフで取り分けるのに便利な方法はないか、という疑問から目黒雅叙園の創業者が発明したという。日本でも結婚披露宴や法要の後の会食に中華料理の高級店が利用される事が多いが、これは大人数と中華料理の相性が良いから。そして この場合の中華料理は円卓の上の大皿を大人数で摘む広東料理であり、我々の晴れの日の円卓のイメージは遠く香港へと繋がっている。
実際の香港で円卓と再会できる場所、それは海鮮飯店だ。「海鮮」とはいっても派手さで有名なジャンボキングダム(珍寶王國)のような水上レストランや西貢(サイクン)にあるような特大水槽付きの海沿いの野外レストランのことだけではなく、朝から昼にかけては飲茶を、夕方からは本格的な大皿の海鮮料理を楽しむ事ができる華南特有の地元に根付いた広東料理店のことを指す。一般的には商業ビルの2階(香港式に言えば1F、英国統治の名残で地上階はGFという)、広いワンフロアーをぶち抜きで使用し、巨大な体育館のような大広間で大規模に営業していることが多い。そして商圏ごとに等間隔に配置されているように感じるのは私だけだろうか。飲茶タイムは地元民の社交の場として、夕飯や週末は一家団らんの場として機能している。香港人に限らず、中国人は長老を大切にし家族のつながりを非常に大事にすることは周知の事実だが、香港の海鮮飯店にはその縮図があると思う。
朝7時半の海鮮飯店は朝食メニューである「早点」の時間だ。大広間にはテーブルクロスが敷かれた4-5人用の小さめな円卓が整然と並んでいるが、着席している主人公達はお年寄りが主だ。彼らは家から持参した広東語新聞を片手に、決まった時間ゆっくりといつもの席に着席し、いつもの仲間を待っている。オーダー開始は朝8時から。「飲咩呀(ヤムメーア)?」の声とともに好みの茶の注文から始まり、各テーブルのオーダーシートが一斉に回収される。別刷りの今月のオススメ早点が特集されたオーダーシートもあり、こちらはお得な価格で提供される。やがて茶器一式とボウルが配られると、一斉に洗杯(サイブイ)の音がホール内にこだまする。洗杯とは箸やレンゲを一煎目のお茶ですすぎ洗いする広東地域特有の所作のこと。衛生状態が悪かった頃から残る食器を消毒するための習慣で、現代ではまったく必要の無いものではあるが、周囲のお年寄りが慣れた様子で茶杯を洗う様子は優雅かつ興味深い。やがて注文の蒸籠が出来上がった順番で配られ、あちこちのテーブルで幸せの時間が流れる。寒い時期なら煲仔飯(ボウジャイファン)という土鍋飯を注文する人も多い。海鮮飯店の粥は街中の粥店よりも旨味があるように感じる。早点の客は食事が終わってもすぐには帰宅せず、数時間はお茶を飲みながら優雅に過ごすのが一般的だ。
一方、夜の海鮮飯店は広東世界の真骨頂ともいえる空間に様変わりする。ホール内は見渡す限りの人・人・人。大人数でどの円卓も大変な賑わいとなる。特に週末の夕餉は大家族が集う傾向がより強くなり、家長・子供夫婦・その孫兄弟とボーイフレンド・果ては小さなひ孫からフィリピン人の阿媽さん(=香港特有の外国人住み込みメイドのこと)まで含め、次々に運ばれる大皿の海鮮料理を互いにつつき合いながらの大声で会話する光景が広がる。
円卓も朝とは打って変わって大きなものが主体、ひとテーブルの定員は大きな12人用に変わる。この原理、実は脚は同じもので、朝と夜とで丸天板の大きさを変えているのだ。円卓は脚と丸天板の簡単な組み合わせで出来ており、テーブルクロスで隠されている。外した丸天板はゴロゴロと円盤のように簡単に移動でき、大広間の端に重ねて立て掛けておけば場所も取らないので、必要に応じて配置を自由に変えられる効率のよい仕組みだ。
給仕は水槽から取り出された活きた食材をそれぞれの円卓へ運び、客にその姿を確認させた後いったん厨房へ消える。数分後、豪華に彩られた大皿料理を持って再登場する。その一連の流れがあちこちで繰り返される様子はまさに幸せそのものだ。支配人らしき人物があちこちの円卓に挨拶に回り会話する様子から、円卓の主は長年の馴染み客であることが分かる。海鮮飯店は周辺の地元客に支えられ、地元客は海鮮飯店を狭い自宅のダイニング代わりに利用する。よってホールの中の熱気は、そのままその街の空気感ともクロスオーバーする。同じ商圏の中に大規模な海鮮飯店が二つとないのはこういった理由からかもしれない。
映画「恋する惑星」の中で印象的に登場したミッドレベルエスカレーター。急坂で有名なセントラル(中環)エリアのランドマークになっているが、急坂はなにもここだけに限らない。
上環(ションワン)の西側、西營盤(サイインプン)を中心とした西環(サイワン)エリアにもかなりの急坂を擁する香港島らしい風景が広がる。3年前にMTR港島線が延伸し、それまで路面電車が主体だった交通事情に変化が起きたことで注目を浴びているエリアだ。実はこの地の歴史は香港の中でも比較的古く、イギリス植民地時代の開拓もいち早く始まった場所でもある。
山の下、東西方向にトラムが走る繁華な通りが乾物問屋や漢方薬問屋が集まる德輔道西(Des Voeux Road West)。通称「海味街」と呼ばれ、乾燥アワビや燕の巣、干し椎茸などが所狭しと並べられた問屋が通りの左右に立ち並び、干した魚介類と漢方薬の匂いが入り交じる香港らしい空間だ。一日中人通りの多い道だが、やはり入荷のトラックが集まる午前中が賑わいのピークのようだ。西營盤のハイライトは急坂を上がって行く南北方向の「正街」。八百屋や肉店、地元スーパーと生活雑貨店、茶餐廳や外帯(お持ち帰り)専門の點心店など が数多く所在し、1本上のバス通りである皇后大道西には小規模な飲食店が集まる。坂の中腹には西營盤街市と正街街市の二つの街市を抱えるため、周囲一帯は庶民の生活の場としての香港の素顔が色濃く窺える。この正街には急坂ゆえ二つの街市周辺から上のレベルにはヒルサイドエスカレーターが設置されている。さらにエスカレーターを登ると、下から第一街、第二街、第三街、高街の順に東西方向の道が現れる。この一帯からは西洋料理のレストランやリノベ系のカフェ、輸入食品専門店が目立ち始め、通りの雰囲気は上へ行けば行くほどがらりと変化。いよいよたどり着いたアッパーゾーンは学校と高級住宅地=欧米人が多く居住するアカデミックな高台の 街である。最初はダウンタウンのの緩やかな坂も街市を越えた中腹からえげつないほどの急坂へ変化するので、アッパーゾーンへ出入りする車はマセラティやテスラなどの高級車が中心。これほどの落差がたった300メートル弱の短い坂の間に両立している、なんともユニークな街が西營盤だ。
この地には「公共浴場」も現存している。正街の1本さらに西を通る西邊街の坂の中腹にピンク色の外観の四角い建物がそれだ。いわゆる日本的な銭湯ではなく、広い空間の左右に間仕切られたシャワーブースが連続する無料の浴場のようだ。この「第二街公共浴場」は1922年に設置された当時の植民地政府の建物で、現在まで市民に使用されている。1900年初頭当時はこの周辺が中国人居住地であり公衆衛生の状態が万全でなく、度重なるペストの発生から順次整備されたらしい。朝は7時から9時まで、夜は16時半から20時半まで。11月から5月までの気温が下がる期間はお湯が出るが、それ以外の季節は冷水に耐える必要があるようだ。
夕方、正街は食料品を買い求める主婦やインドネシア人の阿媽さん達の熱気で包まれる。粥店の蒸籠から立ち上る湯気が通りを漂い、肉屋は仕事中、肉切り包丁を片手に馴染みの五金舗(設備屋)の女将さんと通りに響き渡るほどの大声で世間話を繰り広げている。2階建てバスが巨体を揺らしながら交差点を横切り、八百屋の呼び込みは万国共通のダミ声だ。そして坂の上からは見下ろす穏やかなビクトリア湾上には、マカオ行きの真っ赤なターボジェット(水中翼船)が今日も行き交っている。 香港はついに日本を抜いて世界一位の長寿大国になったというが、その理由はこの街で精一杯に日々を暮らしている人々を見ていれば自ずと分かるような気がする。毎日あれだけの急坂を昇り、日々腹の底から大声を出して笑い、涼茶を愛飲し、朝の太極拳や飲茶店の情報交換で社会と繋がる。大都市に暮らしながらも体に悪い事とは無縁の生活がここにはある。