2018/03/16 08:00
「八仙飯店之人肉饅頭」という香港映画をご存知だろうか?映像としては極めて残酷でショッキングなだけに視聴はまったくお勧めしないが(かく言う私も予告編映像だけで怖じ気づいたため未視聴)、これは実際に起こった事件を映像化したノンフィクションだ。
八仙飯店一家殺人事件は1985年にマカオ半島・黒沙環で実際に起きた大量殺人事件。容疑者の黄志恒が焼臘店「八仙飯店」の経営者一家と従業員含む計10人を殺害したとされ、逮捕後の調べで容疑者が犠牲者の遺体を叉焼包にして店で販売したという噂が出回り、香港とマカオで一時大々的に騒動になった。容疑者はその後マカオ刑務所内で数度の自殺を繰り返した後に死亡。真相が語られる事は無く、実際に人肉の料理が提供されたかは定かではない。しかし...。
ここ香港に来ると、そんなことがあってもおかしくないかもな、と思わせる空気がある。特に食に関しては...。
3年振り、5度目の香港は東京からの往路便が遅れたことで夕刻の到着となった。空港バスで香港島は西環のホテルに入り、荷物を解き再び街に出るともう夜になっていた。ここは香港、腹ごしらえをと張り切るも、中途半端な時間に摂った機内食のせいで空腹感も中途半端、このままいくと夜中に空腹のピークを迎えそうな悪いパターンだった。そんな時に活躍するのが街市の食堂。ということで近くの上環街市へそぞろ歩く。
街市(ガイシー)は香港やマカオにある公設市場のこと。市政府が運営する複層の大きなビル内に生鮮食品店が多数入居しており、食に関するモノはすべてそこに集まっている施設である。地上階から上階へ向かって、鮮魚・肉・野菜・乾麺・乾物・生活雑貨・荒物・衣類から最上階には熱食中心と呼ばれる屋台街までを有する、香港特有の一大商店街ビルだ。街市は市民の生活に根ざした小売市場であって、卸売りに限定されたものではないのが日本の市場との違いだ。
初めて香港に来た貴方が街市の中に入って驚く事、それは売り物の肉や魚が「まだ」動いている事であろう。ニワトリは鳴き、鮮魚は跳ねる。牛や豚はさすがに半身になってはいるものの、肉切り包丁で部位ごとに捌かれぶつ切りに解体されていく様は、ほんのさっきまで生きていたであろうライブ感がある。きれいなプラスチックにパッキングされた肉売場に慣れた我々日本人からすると、ビチャビチャの床に滴る血や生臭い匂い、さらに鳴き声まで加わり共鳴する街市は、もはや衝撃の人肉饅頭の世界観とも映るかもしれない。
街市の成り立ちは香港の公共衛生概念の変化と常に連動してきた。昔はどの店もすべて市中の露店に原型があったはずだが、マラリアや鳥インフルエンザ・SARSなど、感染症の度重なる発生の度に市政府の管理下に置かれ集約されていったと考えてよい。広東料理では食材には常に鮮度を求められる。死んでから数日が経った食材には何の価値もない。危険でも食欲に勝るものは無いという香港人の気概と日常の暮らしを窺える、恰好の場とも言えるだろう。
香港人の胃袋とも言える街市は、狭い香港特別行政区の中に108箇所も存在する。人が集まる街の中心地に必ず所在し、朝から夜まで人が出入りし賑わいのある街市だからこその魅力。それは最上階の「熱食中心」ではないだろうか。香港の朝食の代名詞である朝粥や雲呑麺専門店、香港ローカルの喫茶店である冰室(ビンサッ)や日本のファミレスに例えられる茶餐廳(チャーチャンテン)、早朝の早点からおやつの午点まで対応する蒸籠が並ぶ點心店、ぶっかけ飯や炒河粉が手軽に食べられる大排檔(ダイパイドン)、大満足の夕食が摂れる海鮮飯店などが一同に会し、多種多様な食事を市価よりも格安で食べることができる食のパラダイスだ。
街市の食堂は、北角の査華道街市や深水埗の北河街街市など、観光ガイドにも登場するような有名店舗も出てきているようで、旅行者にとっても身近な存在となってきている。また、香港では酒類を提供する飲食店が日本ほど多くなく(香港人は外食時に飲酒する習慣が希薄)、一般的に茶餐廳や點心店では酒類提供は期待が出来ないが、街市の熱食中心には必ず1-2店舗は酒類販売も行う店があるのも良い点。座った店に酒のメニューが無くても、お酒が飲みたいと困った顔をすれば、優しい店主がどこかからビールを調達してきてくれるだろう。この夜は結局、潮州系の海鮮飯店で軽く2品とBluegirl(香港でメジャーなドイツビール)を注文。町の海鮮飯店はいわゆる高級店に類するが、街市の海鮮飯店はその半値程度。幸先よく香港の美食を堪能できた。
元朗(ユンロウ)は香港特別行政区の最も北側、新界の山陰に位置する衛星都市。もはやボーダーの先の中国・深圳の方が距離的には近く、深圳側の高層ビル群がわりと至近に見えてしまうような場所だ。香港島は西環から2階建て直行バスで約30分も揺られればあっけなく簡単に到着。緑が生い茂る田んぼと湿地帯の中に突如として巨大な街が出現する。
新界の歴史を紐解くと香港返還の興味深い事実が分かる。清国からイギリスへの香港地域の割譲と租借は1842年の南京条約から始まる。まずは同年の香港島の「割譲」があり、次いで1860年の北京条約による九龍半島の「割譲」、そして最後に1898年の新界の「租借」があった。まずここで気になるのが「割譲」と「租借」の違い。最初の香港島と九龍半島は清国からイギリスが割譲=もらったのに対して、新界は租借=借りたというのが具体的な違いだ。
1898年から99年後の1997年までイギリスは香港を期限付きで租借していた...だから中国へ返還された、と一般常識では解釈されている。しかし実際には租借していたのは新界地域のみで、九龍半島と香港島は「もらった」ものなので返還する必要がなかったというのが事実なのである。それでもなぜ全域を返還したのか。理由は簡単、水の利権である。香港島と九龍半島にある人口過密都市が頼る水源地は新界にあったから。新界だけ返還しても兵糧攻めされれば九龍も香港島も終わりだ。ならば新界の返還と同じタイミングで残るすべても「再割譲」してしまおう...というのが香港返還の正しい解答である。
そんな香港の生命線である新界にある元朗。香港に有って香港とは似て非なる田舎臭さが魅力の下町だ。元朗の目抜き通りである大馬路には2両編成の軽便鉄道が高速で走り抜け、両脇には香港でも著名な菓子の老舗や麺家、デザート店などが看板を連ねている。B級グルメの宝庫で、活気が街全体を包み込み、人々がごった返している。さらに大馬路・大棠道の一本裏、同益街市の周囲は春節前の買い物ラッシュも相まって大変な人出となっていた。そして香港島や九龍では見る事の無くなった大規模な大排檔(露店の飲食街)もミニバスターミナルで元気に営業中。 深水埗の雑多な雰囲気に似ていなくもないが、何かこちらのほうがもっと田舎臭くあか抜けない町並みと人々。
それもそのはず、この街は中国深圳とのボーダーに近いこともあり、大陸からの「水客」がバスに乗ってやってくるため。一時期、中国製の粉ミルクからメラミン樹脂が検出されて騒ぎになったころ、香港に流通している安全な 日本製粉ミルクを奪い合うように買い占める大陸の人々が、日本のテレビニュースでも話題になったことがあったのを覚えておられるだろうか。彼らは香港人からは水貨客とよばれる、「水貨=並行輸入品」を売買する商人=運び屋である。中国では高い関税がかかる品物も、自由貿易港の香港ではほとんど関税を課さないこと、対中国元の為替レートで香港ドルの価値が下落し続けている事など、水客行為をすることで簡単に利ざやが儲かる仕組みが出来上がっている。1日に10往復以上も出入境を繰り返し、水客行為自体を仕事にしている者もいて、なかなか事態は複雑なのだ。実際、ここ元朗やより境界に近い上水では、水客の買い占め行為による周辺店舗の品不足が深刻になった事もあるようで、購入品を路上に広げて周囲の交通を阻害したり、列を守らない、子供を街中で排泄させるなどの一部の迷惑行為もあり、ピークだった2015年頃には怒った香港市民達による反対運動やデモも頻繁に起きた。(この買い物熱、最近こそその矛先が円安の日本や、その後は越境ECに変わっていったためずいぶんと減少したようだが。)彼らはビクトリア湾の見えるきれいな香港の中心部を目指す事無く、境界を越えた一番最初の街である元朗や上水にやってきて、我先に買い物だけをして帰って行く。こうした需要に対応するため、郊外のベッドタウンの割に両替所や薬局の数が異様に多いのも特徴。大陸との交流が返還以降、加速度的に増加していることを肌で実感できる場所だともいえる。
1970年ごろから飛躍的な伸びを示した人口増に適応するべく、開発された典型的な郊外型ニュータウンである元朗は、大馬路周辺のオールドタウンの背後に巨大マンションがそびえ立つ独特の景観、フランス・パリ郊外のHLM(低所得者住宅)にも似た「団地感」を持っている。 文献によると1898年にイギリスが新界を獲得・租借したころ、すでにこのエリアには清朝の700弱の広東系・客家系集落が点在していたという。彼らは「新界原居民」と呼ばれ、一般の香港居民よりも優遇された地位(特に墓地=香港居民は火葬されるのに対して、客家系の原居民は慣習的に土葬を認められる)が永続的に約束されている。広東に広東人が居るのは至極自然なことだが、福建の内陸から出てきた客家人の集落が最多数で存在することが面白い。隣町、屏山にはそんな歴史が垣間みれるトレイルもあるのだが今回はパス。元朗には街と食と人だけで十分に楽しめる香港の別の顔があった。