「リスボアの回遊魚」の存在をご存知だろうか。統合型リゾートの煌びやかなエンターテイメントショーの名前ではない。それはホテル・リスボアを根城にするプロの売春婦集団のことである。
ここマカオにおいて売春は罪ではない。集客力を誇る巨大なレジャー産業である。リスボアはマカオのカジノホテルきっての老舗であり、この街のランドマーク的な存在だ。老舗の風格が漂う旧館のリスボアと、風変わりな巨大建造物として広く知られる新館グラン・リスボアの2棟から成る。回遊魚が佇んでいるのは鳥かごを模した意匠が独特な旧館リスボアの地下、ホテル併設のショッピングアーケード街だ。ブティックのショーウィンドウが並ぶ迷路のような通路に、完璧な化粧をして良い香りを漂わせた煌びやかな娼婦が大勢で「回遊」している。彼女達は決して立ち止まらない。なぜなら立ち止まっての客引きはルール違反になるからだ。客を取るまで泳ぎ続ける。回遊魚と呼ばれるようになった所以である。彼女らはすぐ上のリスボアの上階に長期滞在で部屋を取り、その部屋を自室兼仕事場にしている。国籍は様々で、入境時に自動的に取得できる30日から90日有効の観光ビザで滞在。上がりをピンハネするような黒社会などのバックグラウンドは皆無と言われており、あくまでも一本立ちした個人事業主のプロの娼婦である。自分のタイミングで地下を回遊し、客が取れれば上階の自室でひと仕事。三度の食事もアーケード内の茶餐廳で取り、休日は優雅にカジノで遊ぶ...いや、実際は短期集中で金を稼ぐためにマカオに来ているのだろうから質素に過ごすのかもしれない。そして何も後ろ盾が無い以上、リスク回避もすべて自身の責任を問われる。ハイリスクだがハイリターン。これも「出稼ぎ」の一種だ。
サウナ形態の施設としては「浴場」というジャンルのものもある。打令(ダーリン)浴場は内港の埠頭に立ち並ぶ一軒の中級ホテルのワンフロアに併設されているサウナ。繁華なバス通りのホテルエントランスの真裏、ひっそりとした桟橋側に入り口があり水商売風の男(国は違えど風情は一緒だ)が立っているので一見してその手の店であることは分かるようになっている。併設とはいえホテル側からはアクセス出来ない謎の階層になっており、実際に裏側に回り込んでみないと入り口が見えないので、ホテルの滞在者は最後まで風俗店の存在を知らないまま過ごす場合もあるだろう。中に入ると在籍する100人以上の女性が舞台上に並んでおり、その眺めは壮観の一言に尽きると言われている。香港では「男として生まれたのなら一度は打令へ行け!」とまで言われる名所なのだそうだ。
さらにこの一帯に広がるいくつかの安宿には大陸系の娼婦を中心とした売春宿が混在しており、こうした宿はロビーを覗くと分かる。「鶏」と呼ばれる女性達が客待ちをしているからだ。リスボアの回遊魚ほど高級ではないが仕組みは一緒だ。しかし昨今の観光業の盛況を受けてこの手の安宿も改装を機に業態を変え、きれいなエコノミーホテルに変貌している。同時に「鶏」たちも締め出され、名残はいくつかの賓館に残るのみだ。
こういった需要を受けてか、夜総会ツアーが香港側の旅行社からパッケージで売り出されている。香港とマカオをつなぐ高速船「噴射飛航=TurboJET」の香港側のターミナルである信徳中心ビルにいくつかの専門の旅行社があり、往復の高速船の旅費と遊興費がセットになったチケットが販売されている。遊び慣れた猛者の中には24時間営業のカジノとサウナを渡り歩くことで、ホテルに宿泊せずにマカオを豪遊する男達もいるようだ。マカオとはそういった豪快な遊び方も出来る場所なのである。
街行く路線バスの方向幕の中で最も多い行き先は「関閘/Portas do Cerco」行きだ。関閘はボーダーのことで、マカオ半島北端の中国・珠海との出入境エリアを指す。中国側からは「拱北口岸」と呼ばれるこのボーダーの一番の特徴は、徒歩での越境者の多さだ。平行する鉄道線や渡船の類いがなく、マカオ側も珠海側もともにボーダーと都心が接しているため、往来する人々のほとんどが徒歩で行き来する。
そもそもマカオは珠江デルタの東に面する寂れた小さな漁港だった。高速フェリーによる香港との往来が活発化したのは比較的最近の1960年ごろの話であって、それ以前は中国との結びつきの方が強かったため、広東省珠海に面した内港側から街の発展が始まった。関閘の周辺も高層の公営団地中心の古びた住宅街になっているため、いきなり現れる両岸のボーダーゲートの巨大施設はきわめて唐突な光景だ。例えて言えば高島平団地の先に国境線とイミグレーション施設があるようなもの。そこを両岸から往来する大勢の越境者が大蛇のような列を作る様は圧巻だ。
彼らの外見上の特徴は気の抜けるくらいの普段着然とした恰好にある。まるで数キロ先の会社へ通勤したり市場へ買い出しに行くようなカジュアルな雰囲気で、多くの人が骨組みだけの簡単なカートやキャリーケースを持ち、中には悠然と自転車を押す者までいる。イミグレの列にママチャリが混じる光景はここ関閘でしか見られないのではないだろうか。それもそのはず、実はイミグレーション施設としては世界最大の出入境者を捌き、2018年には単日の出入境者数で62.2万人超を数えた事もあるそうだ。マカオ人口は65万人、一日に入境する中国人は平均しても30万人強を越える。まるで社会科の授業で習った東京千代田区の昼間人口のようである。
それでは越境した大蛇の列はその先どこを目指すのか。マカオから珠海を目指す大蛇は拱北口岸市場の食材売場へ、珠海からマカオを目指す大蛇は関閘周辺の薬局街へ、それぞれが飲み込まれていく。
マカオを出境し中国側の入境イミグレーションを通過すると最初に広がるのは中国大陸側の広大な空と拱北口岸や珠海站といった巨大建造物、そして「珠海口岸购物广场」なる巨大な地下ショッピングモールへ続く大きな入り口である。人いきれに吸い込まれるようにエスカレーターを下りると、拍子抜けするくらいに明るくて清潔な地下商場がぐるり360°あらゆる方向へ向けて伸びている。数年前まではいわゆる偽ブランド市場が混沌と広がる旧態依然の商場だったようだが、事前の情報と違って今は中国発信ブランドのアパレルショップやMINISO(名創優品)のようなジャパンブランドを謳ったプチプラ雑貨店、回転寿し店やスイーツショップなど、あたかも新宿サブナードにでも来たかのような錯覚に陥る。現代中国の進化の早さは底知れない。進化の迷路をさらに北西方向に進むこと5分。やがて地上行きの階段を上がり切り、中国特有の土埃に煙る剥がれたアスファルト道の先に、マカオ人の目的地「拱北口岸市場水果街」がある。マカオの農業自給率は実に0%。そう、マカオ人は国境線を越えて珠海に毎日のように野菜を買いに行くのである。ウソのような本当の話だ。
水果街は3階建てほどだが規模としては広大な市場になっており、野菜はもとより鮮魚、鮮肉、乾物から日用雑貨、中国茶にいたるまで生活に必需なものがすべて流通している。Wet Marketの名の通り、常に床がビチャビチャし人いきれの熱気に包まれている。マカオ市内にも多数存在する街市(生鮮市場)と品揃え的には変化は無いが、まだまだ中国のほうが物価安ということもあり、5分先のイミグレーションを越えてさらに5分先の水果街を目指すのだ。
では彼らはその都度パスポートを所持してその都度スタンプを受けるのかという素朴な疑問が灯るが、実際はマカオ居民身分証と呼ばれるプラスチック製のIDカードを携行しており、それを「e-Channel」という自動改札機のような機械にかざすだけ。その光景は巨大駅に一列に並ぶ自動改札機と全く同じで、国境を越えている実感は皆無だ。マカオの女子高校生がまるで原宿へ遊びに行くかのように、珠海の购物广场へ簡単に出かけるのだ。
一方の逆方向の流れ、中国・珠海からマカオを目指す大蛇の先を見てみよう。彼らの目的地は關閘邊檢大樓の目と鼻の先、約100Mの周囲に広がる「药房街」だ。古い中層の公営団地の下に小規模な個人経営の薬局がいくつも連なっている。信用の置けない大陸の薬よりも安心安全な香港製・日本製含む海外製薬品や紙おむつを求める「水貨客」が毎日何回も出入境を繰り返し、上がりを稼ぐためにいくつもの段ボールを台車に載せて行き来する。薬局の周囲は荷物の積み替え作業で大忙し。药房側も激しい価格競争を繰り広げており、販売合戦の熱気が伝わってくる。
それにしてもここを行き来すると成長著しい近未来都市、珠海に対してマカオ側のやつれて古びた街並がとても対照的に感じる。珠海の野菜がマカオより高くなるのも時間の問題かもしれない。