涼茶(リョンチャ)は華南の人々の暮らしに深く根付いた苦い飲み物。お茶とは言うがそれはお茶ではなく、漢方に分類される「生薬」である。広く香港・マカオ・広東省一帯から、遠く台湾やマレー半島の華僑社会でも愛飲される。これら国々の街角にはあちこちに「涼茶舗」と呼ばれる立ち飲みスタンドがあり、駆けつけ一杯と言わんばかりに立ったままゴクリと茶杯をすする姿をよく目にする事ができる。この飲み物をひとことで簡単に言う事は極めて難しいが、利尿作用を即すことは確実で、それに由来して解毒・解熱・暑気払いといった効果が期待できる。温度も湿度も高い状態が続く中国華南から東南アジアに暮らす人々の知恵が創り出した漢方だ。日本人には理解しにくい部分だが、高温多湿で雨の多い亜熱帯では身体の中に熱が溜まり易く日常的に「のぼせる」「イライラする」「炎症が起きやすい」状態が起こる。これを中国では「熱気(イッフイ)」と呼び、溜まり過ぎれば身体のバランスを失いいずれは病に繋がると言われている。この「熱気」を強制的に排出する漢方として中国・華南で広がったものが亀ゼリーや涼茶だ。真っ黒で、漢方臭く、ほのかに温かく飲めば強烈に苦い。ちなみに日本でもブームになっている「火鍋」も同じ原理の食べ物で、辛みを摂り強制的に汗を排出することで暑気払いを促す四川料理である。そして種類が細分化されているのも涼茶の特徴で、代表的なものでも廿四味、五花茶、雪梨茶、銀菊露、感冒茶、止咳茶、火麻仁、羅漢果茶、金銀花...などなど、それぞれの効能は「去湿熱」「消炎鎮痛」「消食去滞」「清肝火」など、漢字の字面から何となくだが効能が違う事がわかる。
香港に来るたびに毎回面白がってチャレンジしていた涼茶。読んで字の如く「涼」を求めるお茶=暑気払いという図式は素人なりに何となく理解していたのだが、今回の旅では実際に「感冒茶」に助けられる場面があった。
感冒茶のタイトルに気づいたのはホテル近くのバス停前の涼茶舗だった。商店と商店の間、2坪くらいの椅子も無い典型的な立ち飲みスタンド。真鍮のような鈍い輝きを放つ大きな瓶が目印だ。その日は朝から気怠く熱っぽい感じがあり、もしや風邪かな?という自覚もあったので幾多ある涼茶から「感冒」のタイトルを選んだ。一般的な廿四味や五花茶が毎碗(一杯)11元なのに対し「感冒茶」は倍の22元(約300円)。出てきた茶杯はいつもにも増して真っ黒で目が回るほどに苦かった...。しかしそこからがスゴかった。30分ごとに小用のためにトイレを探し回り、体内の「熱気」をひたすら排出することになったのだ。結果、朝の気怠さは解消。不調も驚くほどに改善してしまった。
こんなにも即効性が高いのであれば、例えば便秘でもないのに便秘に効く「火麻仁」茶を間違って飲んでしまった場合など、効きすぎて下痢を引き起こすのではないか。実際、虚弱体質の人や妊婦は飲用を控えるべきとされている。毎日の飲用、一日複数回の飲用も薦められていない。おそらく腎機能にはそれなりに負荷がかかる為と推測できる。実際、地元民も涼茶舗を利用する際にはその日の体調や不調な箇所、求める効能をこと細かく店主に相談しアドバイスを受けているようだ。涼茶は外国人が効能を良く理解せずに興味本位やチャレンジで手を出すようなものではないのかもしれない。
マカオや香港には数多くの公営団地が存在する。日本の団地とも通じるレトロ感を漂わせる歴代の公営団地たち。それもそのはず、日本の高度成長期となった1960年ごろは、香港にとっても同じく経済発展の時期だった。この経済成長期を支えるために計画され急増した公営団地群は香港の人々にとっても淡く懐かしい思い出である。明るい明日を信じてがむしゃらに働いた昭和のあの頃、遠く離れた香港にも同じ時間を歩んだ人たちがいたのだ。
日本の団地が計画されたのは戦後から10年が経過した昭和30年(1955年)の日本住宅公団(現UR)設立から。一方マカオでは1928年に台山のスラム街で発生した大火災が、香港でも1953年に石硤尾の木造住宅街で発生した大火がきっかけとなり政府の救済から団地の建設が始まった。
マカオでは社會房屋(Habitação Social)、香港では公共房屋と呼ばれ、共に国共内戦以降、社会主義化し疲弊した中国大陸から逃れ日々押し寄せる新移民の受け皿として開発された。日本でも当時急増した地方出身者である「金の卵」達に快適な住宅を安定供給することを目的としていたのでほぼ同様の事象といえよう。彼らは中産階級として土地に根付き日々増大したため、次第に過密する都心人口を分散させようと郊外の衛星都市開発とセットで進められた。よって香港島のような開発余地がない都心では背後に山を抱えるような傾斜地に建ち、新界のような郊外では鉄道延伸も巻き込んだ巨大規模のニュータウン開発となった。マカオでは平民新邨(大廈)や花園、香港では邨(Estate)の名が多くその前には地名が入る。各棟表記は中華圏らしく頭文字が「榮、華、富、貴、福、祿、壽」等のおめでたいワードから採られる場合も多い。氹仔平民新邨福海樓、葵涌邨華豊樓といった具合だ。
建築様式は完成した時期ごとに10世代(舊長型、雙工字型、和諧一型、相連長型第三款、和諧3A型、新和諧一型、T型、小單位大廈、第四型、新十字型)に細かく分ける事が出来る。香港のごく初期の建築物は1954年完成の深水埗區・石硤尾邨で、今や観光名所にもなっている団地博物館「美荷樓=Mei Ho House」を含む一帯にあった。5人家族用に充てがわれた区画で11.2平方メートル、部屋は一つしかなく台所・トイレ・浴場は各階ごとの共用。お互いの生活は丸見え、団地にプライバシーなど有ったものではなかった。10年後の1964年完成の大窩口・葵涌邨も広さ15.9㎡、拡大した面積分は専用のテラススペース(物干し場的な占有部)で部屋は相変わらず一つ、台所・トイレ・風呂なしの状況に変化は無かった。状況が好転したのは1974年築の深水埗區・白田邨(美荷樓=Mei Ho Houseから徒歩5分)の31㎡。テラス部分に占有の小さな台所と風呂・トイレが確保され、建物も15階建て程度に中層化。1984年築の粉嶺・祥華邨では31.9㎡、35階建ての巨大建築へ進化し、主寝室程度は間仕切りが付くように。1994年築の將軍澳・厚徳邨では43.2㎡にまで専有面積が拡大した。しかしこれが広さのピークで以降の団地は2004年築で38.8㎡、2014年築で37㎡へ縮小。技術進化でコンパクトな設計が可能になった事と、このエリアの圧倒的な土地不足がすべての要因だ。広い土地が無い分上へ上へと高層化が進んだが、それも限度となるともう部屋を小さくするしか選択肢は無いのである。
水上生活者が陸へ上がるために建てられた公営団地もある。香港仔の石排灣邨などはそのケースで、かつてアバディーン湾を埋め尽くしていた無数の木造船の住民を収容した大規模団地だ。現在は湾を見下ろす急峻な丘の上に集住している。香港島は傾斜地ばかりで平坦な土地が極端に少ないため公営団地も山腹や小高い丘の上に所在する。当然、交通の面でいえば僻地を充てがわれることも多い公営団地だが、当初から衛星都市的に計画・建設されたため、急勾配の坂の先には小規模でも島式のバスターミナルがあったり、団地の階下(地階)には小さなアーケード商場を有している。隔絶された山の上に見えてもいくつかの系統の路線バスや香港名物ミニバスが直通しているので中心地へのアクセスも意外に短時間だ。近隣に街市(公営市場)が無くても商品の選択肢にさえ目を瞑れば団地の商店街で用を済ますことも出来るようになっている。ただ、そうはいっても便利さの追求は時代の流れ。近年は公営団地の住人も高齢化し、若者の団地離れも進んでいる。ここも日本と同じだ。香港島西部の華富邨はMTR港島線の延伸のタイミングで取り壊しと再開発が決定している過疎団地のひとつだ。やはり住人層の中心は老齢になりつつあり、今後の地下鉄延伸を機に完全な世代交代となるようだ。
深水埗區の白田邨や石硤尾邨も同様にキツい傾斜地に建つのが特徴だ。この団地群は下町の中の下町、深水埗にも近くMTR観塘線の駅があるため人気の物件。啓徳空港時代の低空での着陸ルートとして有名な「香港カーブ」の経路上に位置し、往時はボーイング747型旅客機が頭上スレスレに飛ぶ光景が頻繁に見られるエリアだった。傾斜地に従い段々と建つ団地の中を貫く長いエスカレーターが設置され、そこへ人々が吸い込まれていく。駅入り口でもあるのかと思い興味本位で登ってみると、特にその先に何かが有るわけではない。傾斜地の上段にあるまた別の団地へ向かうための単調な通路があるだけ。しかしその先から見下ろす九龍半島・深水埗の平らな街並みは絶景だった。下りはエスカレーターが無くのんびり階段を下りて行く。香港人の足腰の強さはこういった日常の積み重ねから得られるのだ。
白田邨の下段、白玉樓と田豊樓の地階には「白田購物中心」という典型的な団地のアーケード商場がある。そこには団地住人が毎日のダイニングとして使っている冰室や茶餐廳といった食堂、ジューススタンドにクリーニング屋、文房具店に水果店、五金屋、理髪店(何故か多め)とどれも地に足がついた商売ばかり。どの店も年期は入っているが日々営業中のライブ感に包まれている。白玉樓・田豊樓ともにおそらくは昭和55年頃、1980年築くらいのレトロな風格を感じる10階建ての建物だ。
冰室の丸テーブルにだらしなくへばりつきスマホ中の団地の中学生、文具店の店先に並ぶ小さな消しゴムを楽しそうに選んでいる6歳くらいの女の子、階段ホールに卓を出し麻雀に興じるお母さん達、窓越しにぼんやり遠くを見つめる理髪店の老店主。初めて来たのにいつかどこかで見た光景の数々。次回香港に来ることがあれば、是非近場の団地のアーケード商場を覗いてみてほしい。香港に感じるノスタルジーは遠く日本へ繋がっていることを実感するはずである。