2019/10/10 06:30



老後2000万円問題。この夏、日本を震撼させたワードだ。さらに厚労省の財政検証で公表された30年後の年金給付への厳しいシナリオも追い討ちをかけた。人生100年時代となった今、国からの年金だけでは穏やかな老後を迎えることはできないことがいよいよ決定したようだ。日本国民は全員75歳まで現役で働き続け、さらに年金とは別に2000万円を個々で蓄えなさい、という「年金100年安心」とは真逆の指針を、政府自身が示したかたちだ。簡単に75歳現役と言うものの、老いかたは人それぞれ。仮にかろうじて健康寿命のまま75歳を迎えられたとしても、満額の年金受給が始まった頃には継続的な健康問題が起きたり、配偶者に先立たれたり、果たしてその後の生活を余裕を持って楽しむ事が出来るのだろうか?という疑問符だけが灯ってしまう。
そもそも何の蓄えもせずすべてを国に頼り切るほどの脳天気さはないにしろ、予想よりも鮮やかな政府の突き放し方はやはり衝撃的。一方的に老後への不安だけを煽られたようなものだ。歳を重ね、食べる為だけに精一杯、有り余る時間を持て余すしかなく、外へ出ても出費を気にしなくてはならないので自室に籠もり膝を抱えて暮らす日々...。考えるだけでもゾッとする寂しい将来が待っている...。
そんな不安をよそに、ここはタイ王国第二の都市チェンマイ。日本からの直行便はなく、バンコク経由で約9時間。「北方のバラ」と称される、周囲を2000メートル級の山々に囲まれたタイの古都だ。常夏の首都バンコクから北に700km、標高300メートルの高地にあるので気候的に過ごしやすく、乾期の平均気温は18℃程度。人口は意外に少なく約30万人ほど、バンコク郊外の町の人口のほうがよほど多い。緑にも囲まれ300を越える仏教寺院が街に落ち着きを添えている。そしてここはシニア・若者問わず世界各国からの長期滞在者・移住者たちを引きつけて止まない理想郷でもある。ここチェンマイで今着目すべきムーブメントは「アドレスホッピング」や「ロングステイ」であり、これら新しい価値観を持った「旅するように暮らす人たち」と「暮らすように旅する人たち」両方が快適に集える場所として街が最適化されていることである。
チェンマイが世界中の移住者を引きつける理由。それは風土や食の豊かさはもとより、アドレスホッピングの若者が活動できるコワーキングスペースが突出して充実していること。先進国と比較して格安の宿泊費や食費・移動費。のんびりとした老後をタイで過ごす人のための滞在ビザの緩和政策。そして温和なタイの人々の存在だ。
アドレスホッピングとは究極のミニマリストの姿として近年注目されているライフスタイルの総称だ。3日分程度の着替え、ノートパソコン等の通信ツール、パスポートと、断捨離の末、徹底的にスリム化した必要最低限の身の回り品だけをバックパックに入れ、定住する住居や固定したオフィスを構えず、新たな人脈や交流を求めて日々移動する生活スタイルを実践している若者。海外ノマド(=遊牧民)ともいい、ひとつの拠点に縛られない生き方をする人々のことを指す。仕事は遠隔で従事できる業種(IT関係)が多く、ほぼ個人事業主である。年齢的にも独身者、またはまだ子供のいない若い夫婦が主体で、ノービザ=いわゆる特別な申請の要らない観光ビザだけでいくつかの拠点(国)をホッピングしている。日本国パスポート所持者の場合、タイでは入国時に30日間の観光ビザが自動的に取得できるため、この期限内に隣接国への出入国(いわゆるビザラン)を繰り返せば長期滞在が可能になるという理屈になる。本来、隣国への出入国には多額の移動費がかかるイメージがあるが、近年その常識を根本から変えてしまったのがLCC、ローコストキャリアの出現だ。実際、今回の旅ではバンコク〜チェンマイの航空券は日本円で片道¥2,300、成田〜バンコクで片道¥17,500で手配がついた。東南アジア有数のハブ空港があるバンコクへ出てしまえば、LCC利用で隣国マレーシア、ベトナム、インドネシア等へ費用をかけずに出入国が可能なのである。さらにLCCは片道発券が可能というメリットがあるので、片道切符で複数国をホッピングする生活形態が可能になる。そしてもうひとつ、アドレスホッパーに欠かせないツールがAirbnb等の宿泊マッチングアプリである。1泊だけの短期から、3ヶ月程度の長期も含め、必要な期間の滞在先が、賃貸契約を結ばずとも簡単に見つかるシステムだ。彼らには独身者が多いため民泊やホステルを転々と利用する例も多い。
アドレスホッパーは母国に安定した収入を得られる職を持ちながら、それを遠隔操作で動かしている。そんな彼らが利用する仕事場が、先のコワーキングスペースと呼ばれる場所。植栽のあるカフェのような広い空間の貸事務所で、Wi-Fiを介しクラウド上に保管している仕事のデータにアクセスすることで日々の生業を動かしている。得られた収入は母国通貨で母国の銀行に振り込まれ、生活費はクレジットカードメインで支払い、小口の現金はATMからキャッシングすることで現地通貨を手に入れる。万が一のケガ等の医療費はクレジットカードに付帯している海外旅行保険を利用する。すべてがミニマル。しがらみを捨て、日々新しい土地で新しい出会いを探し、仕事にも邁進するという、そんな生き方があったんだというような新しい人種だ。
一方、ロングステイは主に早期リタイアも含めたシニア世代の海外移住のライフスタイル。ロングステイヤーは長期的に住居を賃貸契約し、一つの場所に安定的に定住するスタイルを取る。そもそも物価の安い東南アジアでは、日本と同じ家賃レベルならプール付きの高層レジデンスやコンドミニアム、広大な敷地の贅沢な一軒家を賃貸することが可能だ。借家には家電・家具一式も含まれるので裸一つで行ったとしてもすぐに生活が始められる。住宅費を抑えたいならば贅沢な要素を絞り込んでいけばよいだけ。9,000THB(日本円で約¥31,500)程度もあれば、快適な中間層の住居を借りる事ができる。ちなみにタイには台所がミニマムだったり、そもそも無い物件も多い。屋台を中心に外食費が安価かつ選択肢も豊富なため、自炊の必要性自体が薄いからだ。そこには夢の上げ膳据え膳生活がある。
タイ含め東南アジアの国々では、労働者ではない富裕層の外国人移住者を獲得するために長期滞在ビザを発給している。タイの場合、取得要件は50歳以上、タイの銀行に一定額以上の預金ができるか、一定額以上の収入(日本からの年金または不労所得)が見込める人に対し、ノンイミグラントビザ(ロングステイまたは年金受給者)が発給される。有効期限は最長5年で、一度限りならばさらに5年の追加延長が認められる。対象国はデンマーク、ノルウェー、オランダ、スウェーデン、フランス、フィンランド、イタリア、ドイツ、スイス、オーストラリア、米国、英国、日本、カナダの14カ国。その構成がいかにもタイらしい。さらにタイ王国特別ビザ「Thailand Elite」「Thailand Easy Access」という有料会員資格もあり、Elite資格なら200万バーツ(日本円で約700万円)と高額ながら、20歳以上であれば年齢要件が無く有効期限は20年。Easy Access資格は50万バーツ、同じく年齢要件20歳以上、5年有効と太っ腹だ。
日本人の移住を例にとると首都バンコクにはすでに大きなコミュニティーがあり、生活に必要な日本食材は市中の日系スーパーマーケットで豊富な選択肢から簡単に入手が可能。日本語対応の病院、美容院、不動産仲介、日本書店、果ては日本人のフリーの便利屋まで何でもござれ。そもそもタイの医療レベルは世界一の性転換手術に代表されるように高度で安心だ。バンコクには世界で2番目に大きい小中一貫の日本人学校があり、大戸屋やCoCo壱番屋、一風堂に吉野家といったチェーン系の日本食レストランはタイ全土に実に3,000店(2018年ジェトロ調べ)を越え、根強い日本食人気を背景にまだまだ増加の一途をたどっている。地方都市のチェンマイにもこのグローバル化の波は届いてはいるが人口集中により極度に都市化したバンコクと比較して圧倒的に田舎であるため、実にのんびりとした空気と便利さが同居する魅力がある。
そしてとどめは「微笑みの国」の住人達の存在。にこやかに微笑みながら合掌するタイの挨拶「ワイ」からは、世の中のあらゆる横しまな雑念を浄化してしまうだけのパワーを受け取れる。仏教の教えに根ざしたタイ人の持つ独特の穏やかさは、かけがえの無い彼らの魅力であり資産だ。思慮深くシャイで性善説を基本とする彼らの性格は日本人のメンタリティに限りなく近い。そんな気さくな隣人達に囲まれて、衣食住からビザ、教育から医療まで、日本人が何不自由無く生活できるだけの素地がこんなにも整っているのである。
どうだろうか。人生100年時代、守られているようで守られていない窮屈な日本で静かに暮らすのかはたまた微笑みの国で新しい事にチャレンジしながら楽しく暮らすのか。先の見えない不安が同じなら、私にはとても単純明快な答えが見えてしまった。チェンマイには、そんなリアルな可能性がある。