2019/11/20 08:00



チェンマイのグルメを代表する「カオソーイ」。カレー麺とひとことで言ってしまえばそれまでだが、タイラーメンの変化球として日本のタイ料理店でもお目にかかる回数も増えてきている。カレーパウダーとココナッツミルクベースのスープに卵麺とクリスピーな素揚げ麺が2層になって投入されており、食感の変化が堪らなく美味。カレー風味の先入観から私はてっきり、この「カオソーイ」はタイ南部のマレー系住民の食べ物(カリーミーの亜種)と長い間信じていたのだが、ある日東京は大久保のとあるハラールタイ料理店のお母さんに、この料理がムスリム発祥かつ北部チェンマイの名物料理であることを教わった。
北部?タイ北部といえばミャンマーとラオスに挟まれた魔のゴールデントライアングル、王権や中央政府から遠く離れ長年にわたり主権による管理が行き届かなかったアヘン栽培地帯のことを指す。なぜそんなところにムスリム向けのハラール料理が伝統的に存在するのか?
ご存知の通りタイは敬虔な仏教国であり、ムスリムの占める割合は全人口の約4.6%(2000年統計)でしかない。その少数派ムスリムもほとんどがマレー系で南タイに集住しており、北タイの地域人口に占めるムスリムはさらに少数の1.53%にすぎないそうだ。その1.53%の大多数がタイ国外に出自を持つ人によって形成されており、その一つがカオソーイを生み出した「雲南系ムスリム」、すなわち中国系集団である。
雲南系ムスリムは約300年前から中華民国時代までは「回民」、中華人民共和国成立以降は民族政策で「回族」と呼ばれ、イスラームを信仰する民族として、中国・雲南を拠点とした地域横断型の交易活動に従事していた。その後1949年前後の中国内戦や以降の政治的抑圧から逃れるように1950年から60年代かけて避難民としてタイに越境してきたという歴史を持つ。そう、もとは中国人の山岳少数民族なのである。そんな彼らが雲南からビルマを経由して持ち込んだ料理がカオソーイだ。中国由来の別名は「雲南小吃」。「カオ」はタイ語で米、「ソーイ」は細く伸ばすの意味で、要するに「米麺」。実際、ミャンマーやラオスのカオソーイは米麺であることから、雲南発祥の元の姿は米麺であったことが推察される。卵麺に変化したりカレーパウダーやココナッツミルク、レモングラスやガランガーなどのハーブにより風味が複雑に絡み合い進化したのは北部タイに入ってからのこと。そもそもココナッツミルクの入手自体、温暖なタイ南部ほど容易ではないはずで、カレーパウダー等のスパイス類もインドなどの外国から入り込んだもの。それらがなぜチェンマイで混じり合い開花したのかは、この地の地の利に起因するもののようだ。雲南小吃がモン族の大移動に相乗りしながら、雲南→ビルマ→ラオス→タイ北部へと伝播した際、中継地の食文化を吸収しながら融合し進化をした結果が、今日のチェンマイを代表するグルメに繋がっている。
もうひとつ、彼らが紆余曲折を経て北部タイに持ち込み発展させたものが民族衣装に代表される山岳民族の手工芸品だ。銀細工、手刺しゅう、アップリケ、バティック布、イカット織。これらの美しい装飾品は、簡単に言えば「嫁入り道具」として母が娘のためにしつらえるモノや「無病息災」「家内安全」の意味を込めて家族にむけて女性達が作り上げてきた伝統手工芸である。一点一点が実に手の込んだ細工であり、目を凝らせば素朴な手仕事とその世界観に引き込まれてしまう魅力がある。
これら地域横断型の交易活動の産物であるスパイスや山岳民族の手工芸品を始め、日常の食糧全般から食器類、家具、日用雑貨、薬、靴や鞄、衣服から生地に至るまで、あらゆるものが集中し一堂に会する夢のようなマーケットが存在するのもここ、チェンマイである。
清迈唐人街(チェンマイチャイナタウン)の中心、関帝廟周囲に広がる商業エリアには二つの巨大常設市場(ワロロット・トンラムヤイ)と、その周囲を囲むように広がるナワラット市場、屋台街、金行街、ソンテウ(乗り合いバス)乗り場、花市場、生地市場が構成されている。その中にモン(苗)族市場というチェンマイを代表するクラフトマーケットがある。
旧市街を四角く囲む堀から分かれる名も無き水路が暗渠になるあたり、川沿いの未舗装の小道に半ば不法占拠から始まったと想像される薄暗いタープ引きの野外マーケットには、アンティークのモン族刺しゅうの古布から手工芸のキルティング、ハンドクラフト向きの装飾パーツから果てはお土産用の機械刺しゅうポーチまで、山岳民族の手工芸品が圧倒的な密度で展示され売り買いされている。客の様子を見ていると約半数はツーリストだが、残る半数は仕入れ目的のタイ人バイヤーであることが見て取れる。ここで仕入れ、バンコクやパタヤのナイトマーケットへ持って行くのだろう、あちこちで現金が飛び交い景気はなかなか良さそうに見える。そのクラフトマーケットを取り囲むように刺しゅう細工の古布を切り売りするテント、装飾材料を扱う店から大小さまざまな生地屋(ちなみに経営者はインド系移民)が集まって、いち地方都市にしては立派な規模の市が形成されている。
チャンクラン通り、ナイトバザールの北側に突如として現れる王和清真寺モスク。その周囲にハラル系の飲食店が集まるイスラム横丁がある。どの店もトタン屋根はあるものの側壁はすっきりと取っ払われ、まるで半屋外で食事をするようなのんびりした空気感を醸し出している。その中の一軒、カオソーイ・フアンファー、その名も「雲南小吃」を訪ねると、ヒジャブで髪を覆った穏やかなムスリム女性数人がテキパキと昼食の準備をしていた。ハラルだけに当然豚肉は選ぶ事が出来ないが、牛肉または鶏肉のカオソーイがオーダー可能。心地よいそよ風を感じながら食する小碗のカオソーイからは、山を越え遥か遠く雲南やビルマの香りを確かに感じる事ができる。

タイの街中において良く目にする看板がある。タイガーバーム(虎標万金油)がそれだ。チャオプラヤー川を航行するエクスプレスボートや渡船の船体しかり、渋滞する路線バスや高架橋を走るBTSの車体しかり、懐かしい黄色い虎が大描きされていて至る所から目を引く。日本からは撤退してしまった中華渡来の万能薬「タイガーバーム」は現在40代の私が子供の頃、家の救急箱の一番取り出しやすい場所に置いてあった。熱が出たとき、蚊に刺されたとき、肩が凝るとき、打ち身にもねんざにも、擦傷にも切り傷にも効果があると言われ一家で重宝がっていた魔法の薬だった。その後家の薬箱も立派になり、症状に沿った専門薬に細分化され、いつの間にか居なくなってしまった黄色い虎。その虎に再会したのは、確かシンガポールに初渡航した時だったと思う。なぜか中国大陸では目にする機会が無く、東南アジアで出会うこの中華薬。歴史を紐解くと、巨万の富を築いた一人の南洋華僑の存在に結びついていく。胡文虎がその人である。
胡文虎の父、胡子欽は#006廈門編で訪れた客家土楼の村、永定県出身の南洋華僑であり、1870年代に遠く旧ビルマ、現在のミャンマーはヤンゴンへ移住。薬草商人だったことから「永安堂」なる薬局を現地に開業した。その後3人の子供に恵まれる。文龍・文虎・文豹である。(兄弟揃ってなんて素敵な名前だろうか!)次男である胡文虎は1882年にヤンゴンで生まれるものの、幼少期から父の故郷、福建・永定で過ごし中華式の英才教育を受けた。父子欽の死後、「永安堂」の経営を引き継ぐためヤンゴンへ戻り、父から秘密の製薬法の伝授を受けた弟文豹とともに新薬の開発に取り組む。「万金油」「八卦丹」といった中華薬局ではメジャーな薬の礎を作り出したのは、まぎれもなく胡兄弟である。お互いの得意とする西洋の医学理論と東洋の漢方処方の知識を掛け合わせ、その後万金油に改良を重ねた軟膏を開発した。胡文虎の名前にちなみタイガーバーム(虎標万金油)と名付けられたこの薬は、高い薬効が評判を呼び、事業拡大の最初の足がかりとなった。
「永安堂」の看板を引提げた胡文虎は、タイガーバームを武器にミャンマーからマラヤ(現シンガポール)、香港、バタヴィア(現インドネシア)、中国・汕頭、タイに分工場と販売拠点を次々に設立し進出、その名を広く知らしめた。永安堂以外にも事業を多角化し、金融業やシンガポールを代表する新聞社である星洲日報など複数の新聞社の立ち上げ、また永安堂事業で得た利益の半分を慈善事業に寄付する等、東南アジアの華僑社会に広く寄与した。胡文虎は1954年に享年73歳で亡くなったが、家業は胡兄弟の末裔達が大切に引き継ぎ、現在では虎豹兄弟国際有限公司(Haw Par Brothers International Limited)として、シンガポールを代表する一大企業体となっている。まさに華僑ドリームを体現したような人物である。
そしてこのタイガーバーム、1980年代の日本に導入されたものは日本向けに穏やかにアレンジされた「ホワイトタイガー」であるのに対し、東南アジアには「レッドタイガー」が存在する。白が冷却剤であるのに対し、赤は温熱剤の役割である。東洋医学では症状に合わせ冷却すべき療法と温熱で治す療法の二つが存在するためだ。患部をマッサージするように塗りこむと効果てきめんだが、塗り過ぎると火事をおこすため注意が必要だ。さらにタイガーバームも郷に入れば郷に従うようで、現地に特化したアレンジ商品がある。タイマッサージの際に併用される安価な清涼油タイプ(この場合は虎標ではなくノンブランドの万金油の場合が多い)のものや、タイでは女性を中心に病的愛好者が多い「ヤードム」、いわゆる鼻スースーのためのスティック型などがそれにあたる。先に登場した「八卦丹」も古くからマウスフレッシュとしてタイでは愛用されている。要するにタイの薬局は香港の中華薬局と品揃えが非常に近しく、中華薬はすでにタイ人の生活の奥深くに根ざしているのである。