2020/02/28 08:00
始めての台湾との出会い。それは遡る事2012年の春。中華圏のど真ん中を旅したくてウズウズしながら次の旅先を思案していた矢先、尖閣諸島の領有権を巡り日中の主張が対立し、残念なことに中国大陸で吹き荒れる反日デモ活動の気運が最高潮に達してしまったあの頃の話だ。連日の報道からは日本領事館への投石騒ぎ、青島のイオンモールではガラスを割り集団略奪を繰り返すデモ隊が発生し、街中の日本車は標的にされ見るも無惨な黒こげに。ビジネス出張者も旅行者も安易に渡航すれば身の危険を覚悟しなくてはならない緊迫した状況の中、「妥協」して選んだ行き先、それが台湾・台北だった。
この頃、当の台湾観光局は訪台旅行者獲得の千載一遇のチャンスとあって、中華航空が割安な正規割引航空券を発売したり、その航空券を購入すると台湾高鉄(新幹線)の片道運賃が無料になる大型キャンペーンを実施したりと、非常に活発に旅行者招致の仕掛けを張り巡らせていた。それまでも台湾旅行は安定した人気を保っていたと思うが、ここまで隆盛になった現在の台湾旅行ブームの基礎は、実はこの頃に出来上がったのではないかと思う。
北埔(ベイプー)という田舎町に日帰りすることになったのは、この台湾高鉄片道無料キャンペーンがきっかけだった。首都台北だけでも充実した訪台を過ごせるのだが、この時は時期が悪かった。春節(旧正月)に当たってしまったのである。滞在2日目が大晦日にあたり、この日の昼過ぎから街中のあらゆる食堂や商店は正月休暇により閉店。旅先の貴重な夕飯をケンタッキー・フライドチキンでやり過ごさねばならないほどに、首都は機能を完全に停止してしまったのだ。翌朝、眠りから醒めぬままに静まり返った春節の台北を後に、高鉄でビーフンが有名な新竹へ、さらに路線バスを乗り継いで山深い集落、北埔へとやってきた。
北埔は台湾のなかでも少数派である客家をルーツとした人々が集住している面白い田舎町だ。慈天宮と北埔老街を中心に、深い霧に包まれた小ぢんまりした古い町が里山に抱かれるように存在する。客家人や福建人が開墾・開拓した蛮南様式の古跡が状態良く維持管理され、味わい深い老街には客家菜、客家菓子、東方美人茶、擂茶といった客家の伝統に忠実な食の老舗が立ち並ぶ。白飯がすすむほどに塩味の濃い味付けが特徴という客家菜をこの日最大の楽しみにしていた私たちは、一通りの観光もそこそこに老街にある一軒の客家菜食堂を訪ねた。観光地にありがちな写真付きの「菜単」で注文を済ませ、今か今かと料理を待っていると、声の大きいお節介な店の女主人が「日本語を話せる通訳を紹介したいのだが良いか?」と話しかけてきた。厄介な話になると困るなと警戒する間もなく、向かいの中国茶店から一人のお年寄りを連れ出してきたのだ。
台湾の山深い老街で出会ったとてもきれいな日本語を操る老人の年齢はこのとき90歳。杖をついてはいるが肌艶も良く、身ぎれいにしている好印象な男性だ。軽い自己紹介のあと、食事中の私たちを気遣い「私は店の前に座っているから食事が終わったら声をかけて下さい。」と言い残し席を外していった。外国での親切は疑ってかかるべし、特に日本語話者には要注意...の信念で旅を続けてきた私たちからすれば、この状況は確実に警戒レベル最上位にあるのだが...。
この老人、張氏(仮名)は民国11年(西暦1922年、民国暦は大正と同じ)、客家の集落、新竹北埔に生まれた。当時の台湾は日本統治時代にあり家庭では客家語が使われていたものの学校では日本語による教育を受けた。客家人の父は厳格な医師で、その背中を見て育った彼は馬を専門に診る獣医師を志し昭和11年(1936年)に鹿児島県の農学校へ留学。3年後に新竹へ帰還し獣医として従事するが、時を同じくして日本は第二次世界大戦へ突入する。戦況が次第に劣勢になる大戦末期、兵士不足に悩む日本政府は統治下の台湾人をも徴兵するための皇民化による「陸軍特別志願兵」制度を発動。張氏も昭和18年に「日本人」として自主的に志願し19年に徴兵、半年の訓練ののちに兵役に就き南洋作戦(現東ティモール)の最前線へ派兵された。戦闘では3日間にわたる海洋漂流など九死に一生を得る体験をするものの奇跡的に生還。昭和20年、インドネシア・バリ島で敗戦を知る。ちなみにこの戦争では植民地出身者21万人(軍属含む)が兵役に招致され、うち3万人が犠牲になった。
悲劇はここから始まる。翌年に台湾へ無事帰還した張氏は、民国36年(昭和22年)から始まった「二・二八事件」に起因する「白色テロ」という恐怖政治により逮捕・収監されたのだ。敗戦とともに台湾から撤退した日本に代わり行政を引き継いだ中華民国(中共内戦に敗れ台湾へ渡った中国国民党政府)は、日本統治時代に高等教育を受けたエリート層や日本軍として兵役出征した旧兵士を次々に逮捕・投獄・拷問し殺害した。当時の犠牲者は推定1万8千から2万8千人とされているが、政府による正式な統計は無くその実態は闇に包まれている。張氏は民国40年(1951年)に無罪放免となるまで、実に376日間もの間、スパイ容疑で中華民国政府に拘留され、拷問による弾圧を受けた。日本統治時代に日本で高等教育を受けた事、日本のために自ら志願し出兵した過去が仇となってしまったのだ。国民党政権によるこの弾圧は1987年に戒厳令が解除されるまで続いた。33年前とは言えつい最近まで政治混乱が続いていたということ、台湾の知られざる一面である。
釈放の翌年、張氏は31歳で北埔鎮の村長に就任。35歳の時にクリスチャンの洗礼を受け、以降引退するまで北埔天主堂で働き続けた。引退後も日本統治時代を懐かしみ感謝の気持ちをこめて、日本人観光客を見つけてはボランティアガイドを勤め、この日の幸せな出会いに繋がったというわけだ。
張氏は左手に杖を、右手にコピーした老街マップを持ち、北埔鎮の隅々までを流暢な日本語で解説しながらゆっくりと案内してくれた。幼少のころ、毎日いたずらで慈天宮の門楼にある石獅の口中の珠を引き抜こうと遊んでいたところ、いつのまにか珠と石獅の口、双方がすり減ってある日突然本当に珠が出てきてしまったとか。大人に言うと怒られるので張氏は誰にも言わず珠を口の中に戻したそうだ。(石獅の口中の疑宝珠は像の口よりも大きく、彫像後に押し入れる事が出来ないので彫像の開始段階から一緒に彫られ内蔵される)途中の屋台では臭豆腐を御馳走してくれた。当初は強烈な糞便臭から食べる事を躊躇していた台湾小吃だったが、張氏の勧めを断れず思い切って食べたことで苦手意識を克服し最高の珍味を知る事ができた。今となっては小吃一番の大好物である。さらに帰りのバスの時間まで自宅にまで招き入れてくれ、案内の道中でちょこちょこと買い求めていた客家菓子や杏仁茶・樟脳油といった産品を、最後にひとまとめにして「これは貴方達への手土産」としてすべて持たせてくれたのである。この時は感動を通り越してただただ感激するしかなかった。
この素敵な出会いの一年半後、張氏に再会するため2013年秋に北埔を再訪した。二度目の北埔行きとあってスムーズに台鉄とバスを乗り継ぎ、ほぼ一直線にお節介な女主人のいる客家菜食堂を訪ねた。筆談で一年前の礼を伝え再び張氏を訪ねてきた事を話すと、笑顔ではちきれそうだった女主人の顔が一瞬にして曇ってしまった。どうやら張氏は歩行中に転倒し骨折、数日前から新竹の大きな病院に入院したらしい。年齢が年齢だけにこのまま寝たきりになる可能性があるのではないか、といった内容を深刻な様子で話してくれた。同居する張氏の孫一族も病院を行き来し多忙なので、今はそっとしておいてほしいと言う。この時は再会叶わず、以降北埔へも再訪できていない。
今もご存命であれば2020年で98歳を迎える張氏。彼のように日本統治時代を懐かしむ日本語話者は戦前に青年期や幼少期を過ごした「日治時代」の貴重な生き証人である。今回の台南では微笑みを絶やさない80代の茶荘の老主人とも出会ったが、彼は戦中に初等学校で4年間のみ日本語教育を受けた最後の世代だった。残された時間は限られているようだ。
近年、台湾では古いものに新しい価値を見いだす気運が特に若い世代で高まっている。そして迪化街やハヤシ百貨店、宮原眼科のリノベーションなど、台湾の古いものは気づけばそのどれもが日本統治時代に建てられたものばかり。台湾に残る日治時代の文化は、なぜか現代の若者をも魅了する。そんな「幸せだった時間の記憶」が、今も続く日本と台湾の蜜月に繋がっているのではないかと思う。