2020/06/10 08:00



初めてペナンの地を踏んだのは1997年のこと。学生時代の長期旅行、タイ・バンコクからほぼ一昼夜をかけイスラム武装勢力の脅威がある南部回廊を走り抜け、陸路で国境を越えた夜行列車が到着したのがベナン島の対岸にあるマレー鉄道のバタワース駅。そこから海峡に浮かぶ連絡フェリーに乗り換えること30分、当時も今とさして変わらない風景だった桟橋に降り立った私は、タイバーツからリンギットへの両替を済ませバトゥ・フェリンギの海岸線へ向かうために日本車の赤いタクシーを捕まえた。ドライバーは華僑の中年男で、市内を抜け海岸まで至る道中、やれここはチャイニーズホスピタルだ、やれここはチャイニーズジムナシウムだ、あっちに見えるのはチャイニーズプールだ、あの山の上はチャイニーズセメタリーだと、ことあるごとに中国人の同郷者が作った大きな施設自慢を繰り返し、誇らしげに語っていたのがとても印象に残った記憶がある。ここはマレーシアだろ?なんで中国人が我々自慢をするのか。そういえば南の島なのに建物の看板は漢字で入り乱れているし、なんだかやたら中国寺院が建ってるし...。その後、数日かけてこの国が三つの民族(マレー・中国・インド)の共生によって成り立っている事を理解し、それが故に三つの郷土の食が一同に楽しめることに気づいて沈没していったわけだが、それにつけても華僑が織りなす世界観のパワーが圧倒的すぎて、まるで中国を旅しているような違和感をずっと感じ続けた。一方で良い事もあった。まだ旅慣れない日本人の若者が海外で長旅を続けていく上で安心感を得られる必需品が身近にあったからだ。その一、漢字の新聞。その二、中華料理。その三、お茶。マレーシアの南洋華僑のおかげで、これら三つの必需品が不自由なくすぐそばに存在するのも大きな魅力だった。

ジョージタウン。ペナン島の中心地であり州都。マレー半島の要所を海峡植民地として統治したイギリスのジョージ4世に因み命名された。そもそもペナン島は1786年「プリンス・オブ・ウェールズ島」と命名され、イギリス東インド会社の貿易中継地として開発された地であり、それ以前はジャングルが生い茂る島のひとつだった。件のイギリス東インド会社は簡単に言えばインドネシアの香辛料貿易を軸としたイギリスの特権会社で、イギリス〜インド〜インドネシアまでの交易ルート上にマラッカ海峡があったことから、中継港として適していたペナン・マラッカ・シンガポールの開発を着手した。その後熱帯雨林が生い茂るマレー半島全体がイギリスの植民地(英領マラヤ)となり、19世紀に加速した錫鉱山や天然ゴム・サトウキビの大規模プランテーション農園の開発に際し、安価な労働力として入植してきたのが南洋地域のタミル人(印僑)と華人(華僑)だった。入植した華人の多くは南部の広東省・福建省・海南島エリアの貧困地域出身者で、現地マレー人もやりたがらない最下層の労働である港湾や建設土木などの苦力(クーリー)に従事し、その努力と商才から次第に行商人から露天商、流通や卸・小売、金融業や不動産業といった分野へ進出し大きな役割を果たすようになり富を蓄積していった。異郷の土地に根付き商業的にも成功した彼ら南洋華僑は、元はジャングルが茂る緑の島に出身地華南の街並を華麗に再現した。このように複雑な歴史と人々の思惑が絡み合った結果、ジョージ4世に因み命名されたはずの英領ジョージタウンが中華風の街へ変容していったのである。
異郷で強く生きていくためには、相互扶助的な人間関係が何よりも重要になる。彼ら華僑は「幇(パン)」といわれる結びつきを重視し、幇を背景に強固な人間関係を構築していった。世に言う「チャイナコネクション」である。幇には大別して二つ、「郷幇」と「業幇」が存在する。「郷幇」は出身地に基づく集団関係で、同郷者、同姓の一族、同じ言語族間で仕事や知識、情報や人脈を融通しあう。ジョージタウンには同姓者だけが住む水上集落が複数存在するし、同郷者が相互扶助のために建設した「會館」といわれる施設は、出身地域の栄華を誇るため競い合うように装飾されているのが特徴である。「業幇」も職業的連帯集団を指すが、同郷者同士で起業するケースが多いため郷幇と意味するところは近しい。幇で堅く結ばれた者同士は無担保や口約束だけで融資を受けられたり、事業に有用な人脈や知識・情報を得ることができるが、一度でも信用を失えば、幇のネットワークから追放されすべての社会的地位を失う事を意味する。
ジョージタウンから北に16km。リゾートサイドのバトゥ・フェリンギビーチには、大型の高級リゾートホテルが立ち並ぶ。老舗のラサ・サヤン・ホテル、ゴールデン・サンズ・リゾート、パームビーチ・ホテル。これら複数のホテルを経営するのが、シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ(クォック・グループ)の代表、中華系マレーシア人のロバート・クォック(郭鶴年)だ。1923年生まれの御年97歳。クォック・ブラザーズ(マレーシア)、クォック・シンガポール(シンガポール)、ケリー・ホールディングス(香港)の創業者で、毎年世界長者番付に名を連ねる大富豪である。
クォック氏は客家系で、1923年にマレーシアのジョホール・バルに福建省福州市からの移民の次男として生まれる。裸一貫の移民だった父親は商店の店員からコーヒー店の開業を経て、米・大豆・小麦粉などの食糧や穀物を扱う「東昇公司」を創業した勤勉な倹約家で、兄弟一族や子供達を積極的に経営に参画させた。クォック氏はそこで商売の基本である「正直さ、信頼、消費者利益の重視」を学ぶ。さらに父親の熱意と方針により当時最高のエリート教育を受け、優秀校出身ゆえに華麗なる同窓生(元シンガポール首相のリー・クワンユーやジョホール州のスルタン=王族など)に恵まれた。当然、その人脈はのちの人生に大きな価値を与えた。大戦後の1949年、一族の結束のもと東昇公司を拡大し「郭兄弟有限公司」を設立。シンガポールの貿易会社を買収して商品先物取引に進出し成功。1959年に日本の日新製糖・三井物産と合弁で「マラヤ製糖」を創業。砂糖取引においてはマレーシア国内で80%、世界シェア10%を占める「アジアの砂糖王」と呼ばれるに至った。
さらに当時の時流から観光関連ビジネスの拡大を予期したクォック氏は、マラヤ政府の要請を受け「マレーシア・シンガポール航空」の会長に就任。マレーシア観光開発公社の代表も務め、観光産業進出の素地を身につけた。71年のシャングリ・ラ・シンガポールを皮切りに、77年に香港カオルーン・シャングリ・ラを、84年に中国本土初進出となる杭州シャングリ・ラを次々に開業し、アジア各地や欧米含め100以上のホテル事業を展開、「ホテル王」の異名をとった。その間も平行して中国本土とのパイプも太くしていった。香港進出後、毛沢東時代の砂糖不足に際する支援や、欧米の投資が激減した天安門事件後の局面での投資の継続、両親の出生の地である福建省に向けた積極的な社会貢献活動などを展開。その影響力を東南アジアから中国本土へも拡大させ、のちの中国経済の結果的な成長が相乗効果としてクォック氏の多国籍企業体をさらに拡大させていった。
クォック氏のサクセスストーリーは今や世界各地で活躍する華人経営者の手本とされている。移民当初の苦境の中から倹約・勤勉の精神で事業拡大することを中国では「白手起家」(裸一貫からの起業)というが、一代で多国籍企業体を率いるまでに至った彼こそが「白手起家」そのものである。人の嫌がる仕事も積極的にこなし、実直に仕事に取り組むこと、親類縁者を大切にすること、母国(マレーシア)と祖国(ルーツのある中国)へ最大限に貢献すること。将来の発展性を見越し異分野へ挑戦したり、ウラをかいたリスクに挑む投資(天安門事件後の中国への投資継続判断)をするなど、そのすべての判断が「幇」の結びつきや教えに基づいたものであり、南洋華僑同士の強固な結束の元に実った当然の結果なのである。
東アジアを席巻し同じく共産党下の中国でも絶大な人気を博したアジアの歌姫、鄧麗君(テレサ・テン)が短い人生の中で結婚一歩手前まで真剣交際(のちに破談)をした唯一の男性はクォック氏の御曹司であったことはあまり知られていない事実である。テレサ・テンも中国をルーツとする台湾籍の内省人二世であり、その後の活動で(結果的には叶わなかったものの)中国本土民主化に対して積極的な関わりを志望していた。母国および祖国への貢献という、華僑の宿命としての結びつき「幇」の精神が、ホテル王とアジアの歌姫を意外なカタチで結びつけたのかもしれない。